「トランさぁん、次の街まであとどれぐらいですかぁ……?」
夕暮れも近づく街道沿い、へろへろという形容がぴったりな声が地図を見て考え込んでいたトランの意識を現実まで引き戻した。見れば、最後尾を歩いていたノエルがすっかり疲れた様子で立っていて、僅かばかり息も上がっているように見える。
旅慣れたトランや体力のあるクリス、見た目よりも色んな意味で強靭なエイプリルはまだしも、この旅が初めてだというノエルにはここまでの強行軍は少々つらかったのか。クリスに差し出された水を飲みつつ息をついたノエルにトランは向き直りグローブをはめた指で地図をなぞる。
「そうですねぇ……このペースで進んで夜につくかどうか、でしょうか」
ここから、ここまで。とトランの指先を同じように目で追ったノエルの表情が一瞬固まる。前の街からこの先までのちょうどこの辺りで中間地点。だが、あくまでそれも今までと同じペースで歩ければ、の話であって、疲れているのが目に見えてわかるノエルが同じペースで歩けるはずもない。
「おい、まだノエルさんを歩かせる気か?」
「わたしは歩かせるなんて一言も言ってませんよ。勘違いしないでくださいね」
むっと形の良い眉を顰めてクリスが言えば、トランは地図を持ったまま軽く肩を竦める。ノエルの後ろでエイプリルがやれやれと溜息をひとつ落とした。最近恒例になりつつある言い合いに気付いたノエルが二人の間に割り込むようにしてふるふると首を振る。明るい茶の髪がふわふわと揺れて、緑の目が二人を交互に見上げた。
「トランさんはあたしの問いに答えてくれただけですし、クリスさんは心配してくださってるんですよねっ、ありがとうございますっ」
毒気を抜かれ、クリスが黙り込みトランは僅かに口元に笑みを浮かべつつ地図をたたむ。
「で、あのっ。あたし、大丈夫ですか……」
「俺が疲れた。野宿にするぞ」
さらに言い募ろうとしたノエルの言葉を、後ろから声が遮った。言葉を止められきょとんと目を瞬いて振り返るノエルに、声の主であるエイプリルは何事もなかったかのようにさっさと背中を向け、街道脇の森へと足を進めている。しばらく三人とも呆然とそれを眺めていたが、いちばん最初に我に返ったクリスが咎める声を上げつつ追いかけ始め。
「……行きましょうか」
「は、はいっ」
意図せず互いに僅か笑みを浮かべあったトランとノエルがそれをさらに追った。
野宿も何度目かになれば、すっかり手馴れたもので。簡単に晩御飯を済ませた後、やはりかなり疲れていたのだろうノエルは早々にテントの中で眠りについてしまっていた。ぱちぱちと爆ぜる焚き火の周囲は今はトランだけで、クリスとエイプリルは近場に水場を見つけたという理由で水を汲みに行っている。
かさり、という小枝を踏む音にトランが振り返れば、立っていたのはエイプリル。その横に一緒にいたはずのクリスはおらず、トランは紫の瞳をきょとんと瞬く。
「エイプリル。クリスはどうしました?」
「案外量が多くて時間がかかりそうでな。先に戻ってきた。……ノエルは?」
量が多いと理解していながらあっさりクリスをひとり残して戻ってきたと悪びれた様子もなく言い放つエイプリルの問いかけに、トランはテントを指差して答える。視線をトランの向けた指の先にやって、そうか、と軽く金の髪を揺らして頷いた。
「ノエルがああやって言うこと、わかってたんですか?」
「いい加減にわかる。ノエルはわかりやすいからな」
自分は大丈夫、と言うのがわかっていたからその言葉を遮った。エイプリルは被っているベレー帽を外すと肩に落ちかかった長い髪を優雅な所作で背中に払った。ゆっくりとノエルと同じテントに足を踏み出しつつ、ややあってトランに振り返る。
「……」
口を開きかけ、トランと視線を合わせるもいや、と口元だけで呟いてそのまま改めて背を向けた。
「見張りを頼む。クリスはあと少しで戻るだろうからな」
「えぇ。おやすみなさい」
ひらりと手を振ってエイプリルに答えつつ、トランはおもむろに傍に置いていた帽子を目深に被った。ここまで続いていた奇妙な関係。その関係性を楽しんでいるのはおそらく自分だけではないのだろう、と。そんなことをふと思い立ってしまって。爆ぜる炎を見つめつつ、トランは小さく息をつく。そうしてらしくないと肩を落とした。
「……何だ、エイプリルは先に寝たのか」
焚き火の音だけが支配していた静寂を、不意に声が切り裂いて。現れたクリスは水を早々にしまいこむと焚き火をはさんでトランの前に腰を下ろす。きょとんとした表情で自分を見ているトランに気付き、むっと眉を寄せた。
「何だその顔は」
「あ、いえ。お帰りなさい」
気配にすら気付かなかったところを見るとだいぶ考え込んでしまったらしい、とトランは苦く笑みを浮かべる。その苦笑する理由がわからずクリスは首を傾げるが、それ以上は聞く気もなく口を閉ざした。再び降りる沈黙。決して居心地が悪いわけではないそれに口を開けないままトランはじっと炎を見つめていた。
「……先に寝て良いぞ」
「え? ……いや、見張りならわたしがやりますよ」
先ほどの静寂と同じく、降りた沈黙を破ったのはクリスの方で。一瞬その言葉をきちんと受け止められなかったトランは少しの間の後にふるりと首を振って笑顔を向ける。トランが野宿の見張りをすることは多々あったことで、少なくとも何かあったときにトランが気付かずともエイプリルが跳ね起きるということもある。だから大丈夫とトランが返せばクリスはどうにも納得していない表情を浮かべて見せる。
「お前最近寝てないだろう」
問いかけではなくてきっぱりと言い切る言葉に良く見ているなとトランは感心する。眠りが浅く、短い時間でも眠ってはいる。大体クリスが眠ってから目を閉じ、彼が目を覚ます前に自分が目を覚ます、というのが良くある話だ。これが人間ならば体調に支障をきたしそうだが自分はヒトではない。
「まぁ、確かに。ですがわたしは人工生命なのであまり寝なくても平気ですし」
「そういう問題じゃない」
「……はぁ」
トランの言葉を遮るように言い切られるクリスの真っ直ぐな言葉に面くらい、言葉を失って生返事しかできなくなる。さてどうしようと頬を軽く指先でかいて視線をそらせば、クリスの言葉がゆっくりと続いた。
「……大体お前は何でもひとりでやりすぎだとは思わないのか」
「心配してくれるんですか、クリス?」
「違う!」
からかうようなトランの声にクリスが声を荒げる。視線をテントに向けつつ唇に人差し指を立てて静かに、とトランが示せばぐ、とうめいたクリスが言葉を止めた。しばらく何か言いたげに口を動かしていたが、はぁ、と深く溜息を落とした。
「ノエルさんも、お前も無理をしすぎだ。何かあったら困るだろう」
遠まわしな言い方しかできないんだから、と口にしかけてトランは止める。またいつもの言い合いに発展するのは今は得策ではない。エイプリルの名を出さないのは彼女がきちんと引き際を心得ているからだと理解しているからだろうか。
「……それなら、今日はクリスにお任せしますよ。ありがとうございます」
素直に礼を述べるトランに驚いたのかクリスが青い瞳を見開いた。ローブの裾を軽く払って立ち上がり、クリスに背を向けつつ肩越しに軽く手を振って見せる。
「おやすみなさい、クリス」
「……あぁ」
トランの背に向けての返答は小さなもので。火に枝をくべる音もテントの布に遮られて聞こえなくなる。ノエルを中心に変わり続ける何かを思いつつ、トランは身を横たえて目を閉じた。
2007/10/26 Ren Katase