Suicide Syndrome


【Forget Me Not】

 「……お前は時々いきなり無茶をするよな」
 ある日の宿の中。いつも通りに同室になり、互いに一息ついたところでぼそり、とおもむろに静寂を破って響いたクリスの声にトランは目を瞬いて手元の本に落としていた顔を上げる。向かい合うようにベッドに腰掛け、こちらをじっと真っ直ぐに見つめているクリスの瞳を見つめ返して、困ったように笑って首を傾げた。
 「何です、藪から棒に」
 「思ったことを言ったまでだ。特にそれとか」
 クリスの指が指し示したのはトランの左腕にはめられたままの白銀に輝く篭手。手に入れたふたつ目の薔薇の武具『アガートラーム』。自らの左腕を持ち上げ、その篭手を視界に入れつつトランはクリスを見やる。
 「アガートラームですか。これは仕方がないでしょう、そういう武具なんですから。
  ……カラドボルグとタイプは似てますが、あれよりも攻撃力に特化しているようですし」
 クリスの言いたいことをなんとなく理解してトランはあぁ、と頷いて篭手を見つめる。
 装備した人間の命を吸い取り、魔法攻撃力に変えることのできる篭手。単純に攻撃力のある両手剣のカラドボルグとは違い、篭手という防具としての効果よりも攻撃力に特化させる為の代償のようなものだろうとトランは予測する。相手の防御を無効化するカラドボルグ、命を攻撃力に変えるアガートラーム、そして空間を歪めるカフヴァール。まだ見ぬ他の武具も、おそらくは何らかの力があるのだろう、と。
 トランの言葉にもクリスの表情は変わらない。トランから見ればよりいっそう不機嫌そうな表情になったようにも思える。どうしてクリスがそんな表情になる理由がわからず、トランはさらに不思議そうに目を瞬いた。
 「……それを使って、もし死んだらどうするんだ」
 ぽつり、とクリスが落とした言葉。そんなことを自分に言ってくるとは思わなかったがために、一瞬だけ反応が遅れたトランはおどけるように軽く肩を竦めて見せる。さら、とトランのローブが衣擦れの音を立てた。
 「それはその時でしょう。わたした、覚悟の上でこれを使っているんです――仲間を、わたしのやり方で護る為に」
 思うままきっぱりと淀みなくトランは口にして、己の胸の前でアガートラームをはめた左腕を緩くあげ、軽く掌を握って見せる。クリスの複雑そうに寄せられた眉の下、青い瞳がトランを見つめていた。膝の上で緩く組まれた指に力がこもったように見えたのはトランの気のせいだろうか。
 「……護ったからといって、死んでは意味はないだろう」
 まるで血を吐くような声音にトランが一瞬浮かべた笑みを凍らせる。
 「……それは、貴方の経験からですか」
 「っ!」
 囁くように無意識に吐き出されたトランの言葉にクリスが弾かれたように顔を上げた。叫びだしたいような、できないような。まだ幼さの残る顔にそんな表情が垣間見えてトランはクリスから視線をはずし、ゆるりと頭を下げる。
 「……すみません、失言でした」
 本人が望んだことでなく『死神』と呼ばれて育った彼はおそらくトランが思うよりもずっと多くの人の死を見てきたのだろう。目の前で人が死ぬ、ということに過敏になっていてもおかしくはない。ましてやトランが使うアガートラームは命を攻撃力に変換する。死ぬ可能性とてまったくのゼロではないのだから。
 もちろん、トランにもそれはわかっている。アガートラームを手に入れてから、力を解放することによって死ぬかどうかというリスキーな戦い方をしているつもりはない。
 ですが、とトランは言葉を続けた。向かいに座るクリスを真っ直ぐに見て、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
 「わたしは死んででも、という覚悟でこれを使っていますから」
 護るべきものがある。完全に死んでもいいと思っているといったらきっと嘘になる。薔薇の武具を持ち帰るという己の使命を忘れているわけではないが、仲間を護るためなら、と思っていることも間違いではない。生きるか死ぬか、そんなぎりぎりだということはおそらく間違いではないだろう。
 それでも、アガートラームを使う理由は簡単だ。立ちはだかるものを排除するためにはできうる限りの力を使う、トランにとってはただそれだけのことに過ぎない。
 「トラン」
 「はい?」
 少しの沈黙の後、クリスがトランを呼んだ。クリスの目元は俯いたまま長めの金の髪に隠れ、口元だけが動くのが見えた。手元は先ほどと変わらず、少しの力を込めて指先が組まれていて。少しだけ逡巡するかのように唇が薄く開いた後、引き結ばれて改めて開いた。
 「死ぬのが、怖くないのか」
 クリスの口から出た、一言一言を確認するかのような声にトランはぴたり、と動きを止めた。クリスから視線をそらし、口元にそっと笑みが浮かぶ。クリスの俯いた顔は上がらず、どんな表情をしているのかトランからでは想像すらできない。
 「……怖くない、ということはありません。……けれどわたしには、それよりもっと怖いことがある」
 そっと、トランの手が自らの左腕の篭手――アガートラームをやさしく撫でた。遠まわしな物言いのトランにクリスがわずか顔を上げ、わからないというように眉を寄せて首を傾げる。
 「……何だ?」
 問いかけるクリスをトランは見ないまま。そのトランの表情が一瞬凍りついたようになったことにトランは気付かないままアガートラームに視線を落として口を開いた。


 「忘れられること」


 クリスへの問いに答えた簡潔な返事。予想だにしなかった答えだったのかクリスが面食らったかのように大きく目を見開いてぱちぱちと目を瞬いた。すぐにいつもの笑みに戻ったトランが顔を上げ、怪訝そうな表情をしているクリスと視線を合わせる。
 「忘れ、られる?」
 「えぇ。死んでもヒトは残っている人間に覚えていてもらえる」
 鸚鵡返しのように言葉を口にするクリスに、ここに、というようにトランは自らのこめかみの辺りをグローブに包まれた指先で指し示す。そうして、だけど、と続けてその腕を下ろした。クリスには気付かれないように、軽い力で服の袖を掴む。
 「もし、誰の記憶からも忘れられたとき――その存在は、永遠に失われてしまうんです」
 だから、わたしはそれが怖い。
 囁くように落としたそれは、クリスに聞こえたのかどうか。それが聞こえようと聞こえまいと、トランにはどちらでも構いはしないのだが。
 「……トラン」
 「もし、このアガートラームのせいでも、そうでなくても、わたしが、死んだとして。
 ノエルも、エイプリルも、……貴方も。わたしのことを覚えていてくれるでしょう。だから、わたしはこれを使える。死ぬことは、怖くない」
 トランがゆっくりと左腕を上げ、アガートラームをかざすようにする。窓からのまだ明るい日差しの光を反射して、それは鈍く光を放った。命を吸った時とは違う色で輝くそれにトランはそっと眩しげに目を細める。
 「……」
 「……クリス?」
 黙りこんだクリスを案じてトランが声を掛ければ、クリスは少し額に手を当てて考え込んでいるようだった。そうしてややあって立ち上がり、数歩の距離をトランの目の前まで歩み寄ってくる。座ったままのトランが腕を下ろしてクリスを見上げた。
 「そうだな、忘れてなどやらん。お前が死んだら、悪の組織の幹部でありながら神殿に感謝しつつ涙を流して死んだと言いふらしてやる」
 「ちょ、何ですかそれ」
 クリスの物言いにトランが慌てて声を上げる。それでも、見上げたクリスの表情はどこか悲しいような怒っているような複雑な表情でトランは言葉を失う。クリスが溜息混じりに身体を傾け、トランの肩に額を押し当てた。
 「……だから、死ぬな」
 「……できる限りは」
 旅をしていて、冒険者であって、薔薇の武具を追う以上、完全に約束などできないけれど、とお互い理解しつつ口にはしないままトランはそっと瞼を伏せる。肩にかかる重みと暖かさにどこか、胸の奥が痛むような感覚を覚えながら。





 (……もう、動けない、ですね)
 地面に倒れ伏したトランは薄ぼんやりと翳む意識で指先だけでも動かそうと試みる。村の人間は逃がした。ノエルたちは爆弾を破壊しに行ってまだ戻らない。
 呆けたような騎士たちと、その中心に立つ聖騎士。
 立ち向かったことを後悔はしていない。自分は自分のやり方で、この村を護った。護るために力を使い、自分を護るための力が足りなかった。ただそれだけのこと。
 痛みが薄い。意識がどんどん暗闇に向かっているようで、それでも怖いとは思わなかった。
 遺していく者たちに、すべてを託すことができる、そう思っているからか。
 (わたし、は)
 死ぬのだろう、と。ただそれだけを思った。
 (死ぬなと、言ってくれたのに)
 あの時話したこととは、理由も何も違うけれど。きっと、彼らは自分のことを忘れはしないのだろう。あの時、そう話したように。きっと、覚えていてくれるのだろうと。
 ……何故か、そんな確信があった。
 (……きっと、縛り付けるでしょうけれど)
 聖騎士に言葉を返しつつ、ゆっくりと閉ざした瞼の裏に大切な姿を思い浮かべる。
 最後まで自分は嫌な奴だと自嘲気味に笑みを浮かべるも、力の入らない身体は口元を歪みの形にすらできず。
 (……どうか、クリス)
 瞼の裏に僅かちらついた、金色と、青。
 ひゅ、と風を切る音が聞こえて。
 (貴方が、わたしを忘れずにいてくれるように)


2007/11/12 Ren Katase