「トラン」
呼びかけると、うっすらと目を開く。
紫の目がクリスを見上げてひとつ、瞬いた。ふうわりと目を細めて、わらう。
「クリ、ス」
トランが体調を崩し始めて数日がすぎて。クリスの心配事は徐々に大きくなっていく。
『不完全なまま、事故を超えて蘇った』
クリスの耳を掠めるのは、あの冷静沈着な氷の魔術師のこえ。目の前に横たわる、いとしい彼によく、似た。
『つまり、不具合や障害があったとしてもおかしくはない』
しずかに。
ただ事実を淡々と述べる、薄い唇。
『うしなうことを、覚悟しておけ』
彼が死の淵より目を覚ましてから、ずっとクリスの意識にこびりついた、それら。
本当のことで、そうしていつか来ることで。覚悟はしていたつもりだった。
それでも、その事実が間近になれば先に立つのは恐ろしさだ。
小さな石がひとつ、ゆるやかな坂を転がり落ちていくように。音もなく足元が崩れていくように。
本当に少しずつ、少しずつ。壊れていく姿をただ見つめていた。
「……どう、しまし、た」
言葉すらうまく発せられないトランに袖を引かれ、クリスはその瞳と視線を絡め、わらって。
「……なんでもない」
呟きのように、言葉を返す。
浮かべたえみは、どこか自嘲にも似ていた。
人造人間と言うからには、ひとではない。
だけれどクリスはトランがひとではないと思ったことがない。
わらい、怒り、かなしみ、口喧嘩もする。ひとと何も変わらないじゃないか。
クリスはそれを思って溜息をひとつ。
今は閉じたまぶたの下、紫色の瞳がある。指をのばし、その額にかかった髪をさらりと除けた。
体調を崩したトランはねむっていることが多くなった。
一日の半分以上を眠ってすごし、起きているときもどこか遠くを見つめて。
「……」
さやさやと揺れる風に髪をゆらして、トランの傍に腰かけたままクリスはそらを眺める。
寝室はいやだと言うトランのために窓のすぐ傍にベッドをおいて、トランをそこにねむらせて。
ゆるく指先をからめて組んだてのひらから、ひくい体温が伝わってくる。
「……クリス?」
ぽつり、と静寂をゆらして声がした。
クリスがそらから視線をおろす。くまれた指に、そっと力がこもって。
「ゆめを、見ていました」
かぼそい声がそっと、言葉をつむぐ。
久しぶりに声を聞いたような気がして、クリスはトランに覆いかぶさるように顔を近づける。
トランの声はちいさくて、なかなか聞きとりづらいから。
「むかしの、ゆめを、」
こほん。
ちいさくトランが咳きこんで。
背中に腕を回し、そっと抱きよせる。耳にとどく、わずか荒くなった呼吸。
「……貴方がいて、みんなが、いて……でも、」
こほっ。
もう一度、咳きこんで。ゆるりとあげたトランの腕が、クリスの服をつかんだ。
「わたしは、そこにいない」
ぎゅ、と握りしめられた服。まだ、そんな力があったのかと思えるほどに。
それでも、その握られた手はすぐにまた離れて、とさ、とシーツの上に落ちた。
その動きはまるで、何かをあきらめたようにも思えて。
「……トラン」
「……すみ、ません」
微かな声で、ただそうちいさく述べる。
みえた、ばしょは。
わたしではなくて、「 」のいばしょ。
さみしい、など、おもってはいけないのに。
わたしは。
……わたし、は。
もう、あのばには、いないのだから。
いまというじかんこそ、きせきだというのに、これいじょう、なにをのぞむ?
「……トラン」
「クリス、もう、わたしは……」
「言うな」
トランのささやくような声を、聞きたくなくて呟きでさえぎって。
抱きよせた腕に、それをつたえるように、すこしだけ力をこめる。
それでも腕のなか、ふるりとトランが首を横にふった。
「わたしは、きっと、長くはない」
クリスにわかっていても、トランの言葉はひどく、残酷で。
やがて来るだろう『現実』を、つきつける。
「貴方をまた、かなしませてしまう」
ゆるりと、トランの細い手がのびて、クリスの頬にふれる。
わかっている現実。いずれ訪れる瞬間。
いちばんつらいのは、あなたのはずなのに。
それでも、わたしは、
「ですが、わたしは……貴方の、そばにいたいと思う」
そっと、顔があがって。
紫色の瞳がクリスを見上げ、そっと、えみを浮かべた。
クリスが知る、いつものトランのえみで。
「だから、どうか、そばに……いさせて、ください」
「この、いのちが……こわれても」
ねがうものがある。
いとしいとおもうものがある。
あなたのそんざい。
ともにいるじかん。
たとえ、じぶんがこのままでいられなくても。
どうか、どうか。
「約束、する」
ひくく、クリスがつぶやいた。
腕のなかの身体を、やわらかく、それでも強く抱きしめて。
「傍に、いてくれ」
その日が、来るまでは。
2007/12/18 Ren Katase