Suicide Syndrome







 残された時間など、本当はとうになかったのかもしれない。
 ふれる指、ひくい体温、ほそい身体。
 ただしずかにそこに在るだけのトランを見つめ、クリスはくちびるを噛む。

 夏の終わりにトランが倒れて、それから。
 ここまで保ったのがいっそ、奇跡の一端だったのかもしれない。
 ゆるりと指先をからませて、軽くにぎる。
 うっすらと開いている瞳はすでにどこか、ここではない遠くを見つめていた。

 のばした手の先。
 二度ととどかない場所に、近づいている。



 【4:Credo certe ne cras.】




 歌声が、きこえる。


 同じ場所を繰りかえすだけの穏やかな歌声。
 こわれたオルゴールにも似たトランのこえは、すこし前からつづいている。
 何もうつさなくなって久しい瞳は、そらを見たがってやまなかった。
 ひととしての全体的な感覚が狂い始めている――クリスには、そう見えた。

 それでいて時折、そのこわれた瞳に理性がやどる。
 そんなときばかりはクリスを見て、うれしそうにわらっていた。

 (トランはきっと、全部、気づいている)

 どうなるのかも、どうなっているのかも、どうあったかも。
 だからこそ、そのえみが、痛々しくおもえた。

 (これは、私の罪、だ)

 トランは、そうではないとわらうけれども。
 クリスが、自分が、願いさえしなければ。
 あの時、事故がおこらなければ。
 あの時、差しのべられた手をとらなければ。
 ――あの時。

 「クリ、ス」

 思考はかすかな声によってさえぎられる。
 トランの傍ら、立ちつくしたクリスの袖をつまんだ、ほそい指。
 不思議そうに見あげてくる瞳に宿った、理性のひかり。

 「トラン」

 クリスの呼びかけに、トランはただ、わらう。
 口はひらかないまま、わらうだけ、が増えて。

 「何でも、ない。大丈夫だ、心配するな」

 手をのばし、頬に触れてそっと、なでる。
 じぃ、と見あげてくる紫の瞳を見つめかえして、わらう。

 「……だいじょうぶ、じゃ、ない……で、しょう?」

 クリスを見あげる瞳が、かすかに揺れて。
 服をつかんだ指先にすこしだけ、力がこもった。

 そっとクリスがその手を取れば、わずかに震えていて。
 トランの唇がすこし、言葉をつむごうとひらかれる。
 その声はかぼそくて、クリスはそっとその唇に耳を近づけた。

 「なんて、かお、してる……んです、か」

 すこしだけ、わらったような。こまったような。
 そんな口ぶりで、ささやくような声が耳にとどく。
 久しぶりに聞く歌ではない声に、どこか、ほっとするような気分すらして。

 「……どんな、顔だ?」
 「なきそ、な……かお、して……ます」

 そっと、わらって。
 すっかりほそくなった指先が、クリスの頬をかすめるようになでた。

 「そんな顔、してない」
 「だめ、です、よ。……ごまか、され……ない、です」

 くすくす、とわらった。
 指先が、軽く頬をつついて。
 それだけの動作でもかなり疲れるのか、ゆっくりとその手をおろした。

 「クリス、」
 「なんども、いいます、けれど。……わたしは、」

 後悔してません、とかすかなこえ。
 わかってる、とクリスがちいさな声で返すと、かすかに、頷いて。

 「だから、わらって、ください」

 そう言って、ただ、わらうから。


  わたしは、こうかいしていないから。
  あなたがわらえないのは、
  ――わたしが、つらい。


 「トラン」


  さいごのときまで、わらっていてほしい。
  わたしは、いつまで、あなたのそばにいられるか、わからないから。
  あなたのえがおが、すきなんです。


 「お前は、本当に……馬鹿、だな」

 責めることもせず、ただ、わらって、言うから。
 ほそくなったトランの肩に額を押しあてて、クリスは言葉をぽつり、落とす。
 ふふ、と、トランのわらい声が聞こえて。

 「ばかで、いいです、よ」

 はぁ、と深く息を吐いたトランがクリスにことりと身体を寄せる。

 「トラン、好きだ」
 「だから」

 トランを抱く腕に、力がこもる。
 腕のなかのトランに、顔を見られないようにして。


 「いくな」


 ただ一言、つぶやいた。
 トランの身体が、一瞬こわばったように感じて。
 それから、背中を引かれるような感覚。
 服をつかまれたのだと認識して、その力にすこしだけ、安堵した。

 「わたし、も」

 かすかではなく、声ははっきりと、聞こえて。

 「このままで、いたい」
 「そばに、いたい……しにたく、ない」
 「わたしも、……っ」

 ごほ、と咳きこんで。
 きつくつかんだ手のひらがぱたりと落ちる。

 「トラン、大丈夫か」

 大丈夫、とちいさく頷いたトランの身体から力が抜ける。
 寄りそうようにただ身体をクリスに預けて、目を閉じて。


 そうして、すこしだけ時間がすぎて。
 ただ、言葉もなく、その腕に抱いたまま。
 ふと、トランの瞼がそっと、もちあがる。


 「……あなたが、――、です」

 気づいたクリスが見おろした先、視線がからんで。
 そっと、ささやくような声。
 うなずけば、わかったのかトランの口元がわずか、えみをうかべた。
 ぐったりと力の抜けた身体を確かめるように抱きよせれば、深く、吐息がもれて。

 「つかれ、ました……すこ、し……ねむらせて、くだ、さい」

 ただそう、言葉をおとした。
 寄りかかったまま、トランがゆっくりと目を閉じる。


 投げだされた腕が、力をうしなってぱたりとおちた。


  よこにいて。そばにいて。
  それが、とてもとても、うれしくて。
  だから、しにたくないと、そうおもって。
  あなたがわらってくれるのがうれしかった。
  そばでいっしょにわらえたのがうれしかった。

  あなたがいきているこのせかいで、ともにいられたら、いい。
  きっと、さいごには、わらっていうから。

  「しあわせでした」と、ただ、それだけを。






2007/12/18 Ren Katase