Suicide Syndrome


 (やれやれ、すっかり遅くなってしまいました)
 久しぶりに見た図書館で入り浸ること数時間。すっかり太陽は姿を隠し、月が空に姿を見せる頃。夕食すらとるのを忘れ、すっかり本に没頭してしまった自分に苦笑いを浮かべつつトランは図書館の外に出る。誰か彼かが迎えに来なかったのは信頼されているからか、それともただ単に気にしなかっただけか。おそらくはあのギルドリーダーの少女が進言でもしたのだろう、と思って僅か、笑みをこぼす。さて、と気分を入れ替え周囲を見回し、ふと顔を上げれば空にまあるく蒼い月が見えて。
 「……綺麗、ですね」
 その星をかすませ、世界を青く染める薄蒼い月光に目を細め、ぼそりと誰にともなく呟いた。急ごうとしていた足をゆったりとした速度に変えて、トランは空を見上げつつ歩き出す。
 少しだけ、散歩してみようか。
 そんな気分にさせられたから。

 【青い月の夜に。】

 深夜の為か、下の酒場はそれなりに人はいるもの、上階になる宿はすっかり寝静まっているようだった。下の階の酒場の主と二言三言会話して手に入れた琥珀色の液体をたたえる小さな瓶を持ち、トランは部屋へと足を進める。階段をできるだけ音を立てないように上がりつつ、もちろん廊下であっても足音も立てないよう、静かにギルドメンバーの女性二人が眠る部屋の前を横切る。自分が宛がわれた部屋の扉前に立ち、おそらく同室のクリスは眠っているだろう事を予想してゆっくり、静かに扉を開いた。
 「遅かったな」
 扉を開いた瞬間聞こえるはずもないと思っていた声に驚き、トランは上げかけた声を片手で口を塞ぎつつ息を飲むことで殺す。驚きでぱちぱちと目を瞬きつつ見れば、狭い安宿の窓際のベッドにクリスが腰掛け、剣の手入れの手を止めてこちらを見ていた。その青い瞳と視線が合って、トランはばつが悪そうに困ったような苦い笑みを浮かべる。
 「……起きてたんですか」
 「目が覚めた」
 トランの言葉に剣の手入れを再開したクリスの簡潔な返事が返る。それ以上言葉も会話も続かず、苦笑いを浮かべたままトランはクリスの向かいのベッドに腰掛けると帽子を傍の小さな机の上に放り投げた。酒場の主から貰った瓶を何となくではあるが自分の後ろに隠すようにし、肩から外したマントをたたんで膝に置く。
 ふと視線を上げてクリスを見やれば、どうやら説教らしくこんなに遅いなんて何かあったらどうするんだ、などとぶつぶつと呟いているクリスが背にした窓から青白く輝く月の光が見えて、トランはそっとその目を細めた。そんなトランに気がついたらしいクリスが顔を上げ、不思議そうに首をかしげる。
 「聞いているのか、トラン。どうしてこんなに遅くなったんだ」
 「……月が、」
 クリスの問いかけに、その背後、窓の外で淡く輝く月を見つめたまま、惚けたようにぽつり、とトランは言葉を口にした。この世に生を受けて数年。短いながらも随分と昼も夜も越えてきたが、こんなにも綺麗な月を見上げたのは前はいつだっただろうと思い返して。
 「……あまりに、月が綺麗で。思わず、散歩してきてしまったんですよ」
 月に誘われるように散歩してきたのは本当で、決して間違ってはいない。やや後ろめたいことがあるとすれば背中側に隠した琥珀色の液体の瓶。どうにもいぶかしむような視線を向けてくるクリスに困ったように笑い返す。剣を鞘にしまいつつ複雑な表情を変えないクリスと視線が合って、トランはやれやれとわざとらしく肩を竦めて見せてやる。
 「何ですか、わたしが外で何かやってきたとでも?」
 「違う。そういうわけじゃない」
 気楽に口にした軽口はさらりと流され、それならどういう、と言葉を続けようとしたトランを見つめてからクリスは少しだけ、目をそらす。どこか幼さの抜けきらない表情が顔ごとそらされることにに不思議そうに思いつつトランが背中の壁に体重を預ければ、溜息混じりに小さな声。
 「……何です?」
 おそらく口の中でだろうあまりにも小さな声で言われた言葉に不思議そうにトランが返せば、ちらりとどこか不機嫌そうにその青の瞳がトランを見やって。もう一度、溜息。床に降ろされた剣の鞘がごとり、と重たい音を響かせた。
 「お前がいないと、ノエルとエイプリルが心配するだろう」
 今度は聞こえるほどの声でぼそり、と告げられた言葉とその言葉の影に隠れた意味に気づいて、あぁ、とトランは納得し、そうして笑う。心配していたのはおそらくノエルとエイプリルだけでは決してないのだろう。言葉の選び方が悪いのはきっとお互い様、だろうけれどと思いつつ。
 「神殿の犬に心配されるほどでもありませんよ」
 「何を言う、別にお前を心配したわけではない」
 いつもの軽口の押収にどちらからともなくふと口元に笑みが浮かんで。ややあって、同時に小さく噴出した。もう夜も遅く。壁を隔てた隣の部屋ではエイプリルとノエルが夢の中だ。ここで多少なりとはいえ騒ぎ立てるのは得策ではない。互いにひとしきり声を殺して笑った後、トランは笑うことで前かがみになっていた身体を起こし、壁に背を預けてクリスを見やる。角部屋のこの部屋の、二つある窓の片方を背にしているクリスの後ろ。窓の外、青い月が何事もないかのようにこちらを見下ろしていた。
 「今度は、もう少し早めに帰ってきます」
 「そうしてくれ。ノエルが随分と心配していた」
 心配して慌て、エイプリルやクリスにたしなめられる様子が簡単に想像ついてくす、とトランが笑う。そういえば図書館に行くという話はノエルにしていなかったように思う。それも踏まえて明日起きたら謝ろうと心に決めつつベッドの上で何気なく動かした腕に瓶が触れて、ふと思いついたようにその瓶を持ち上げてクリスに示して見せた。
 「クリス。お酒飲めます?」
 「飲めなくはない。……それ、どうしたんだ?」
 トランが持ち上げた瓶を見つめ、クリスは露骨に嫌そうな表情を浮かべる。おそらくは自分で購入してきたものかともの思ったのだろう、トランはそれを違うというようにふるりとゆるく首を横に振って見せた。傍のテーブルから帽子を退け、足元に落として代わりに瓶を置く。グラスは二人分用意していないが、下の酒場に取りにいけばいい話。
 「下の酒場のご主人からいただきました。月を見ながら酒を飲むのも悪くはないでしょう?」
 トランが笑顔で言えば、クリスはしばらく眉間に眉を寄せた難しい表情でトランと瓶を見比べる。それから月を見やるように背後を振り返ってからすぐに顔を戻し、ややあってひとつの溜息と共に頷いた。
 「……少しだけだぞ。明日に響く」


 (……弱かったんですかねぇ)
 月が窓を通り抜け、すでに姿が見えなくなって久しく。さほど大きくはない瓶の中身はすでにほとんどなくなっていた。軽くそれを揺らしつつ逆の手に持った自分のグラスに入った酒をちびちびと舐めるように喉に落として、トランは目の前の相手を見やる。無理やり飲ませた、ということはなかったはずだが、とりあえず飲ませた量としてはこの瓶に対して半分もない。しかも2度目か3度目かは忘れたが、クリスに渡したグラスの中には半分ほど酒が揺れている。そしてその当人はといえばぐったりとベッドに身体を横たえていた。
 「……クリス? 大丈夫ですかー?」
 声を掛ければ腕に覆われた下、赤くなった頬がこくりと頷く。どうやら起きてはいるらしいが完全に酔っているのだろう。諦めたように肩を竦めたトランがクリスが残した分のグラスに手を伸ばし、さらっと一気にそれを煽る。喉を落ちる酒の感覚にくらりときて目を瞬きつつ持っていたグラスをことん、とテーブルに置きなおした。
 「弱いなら弱いと言ってくれればよかったのに……」
 飲めなくはない、という言葉を信じたものの、ここまでとは思わなかった。そんなことを考えつつトランが近づいてクリスを覗き込めば、少しだけ腕が動いてちらりと青い瞳が覗いた。意識はあるがずいぶんと混濁しているようで、トランはさてどうしようかと一瞬迷う。このまま寝かせたほうが明日にも響かなくて良いのではないか、と思い口元に指を押し当て悩むように視線をさまよわせた。放っておいてもこのまま眠ってしまうだろうことは容易に想像がつくが、せめて水でも、と意識をめぐらせる。
 「っ!?」
 と、いきなり強い力で腕を掴まれ勢い良く引かれ、トランは目を丸くして崩しかけたバランスを支えようとする。それでも完全には制御しきれず、がくりと身体を傾けるとクリスに覆いかぶさるような形になった。あぁいつもとは逆だななどとどこか的外れな内容を酒が回った頭でトランが考えていれば、クリスの青の瞳がかなりの至近距離にあった。
 トランを見上げてくるクリスの目が完全に据わっているのに気付いてトランはどうしたらいいかわからず戸惑ったような声をクリスにかけようと口を開く。声を紡ごうとした瞬間にクリスの手がトランの頬に伸びて触れる。先ほど自分を引っ張ったほどの力とはまるで正反対の動きに酒も入ったトランの頭はついていかずに言葉を失い、目を瞬くばかり。
 「……トラン」
 そうして、小さくトランを呼んだ。ふうわりと、いつもとは違うひどくやさしく、どこか幼い笑みで笑うクリスに目を奪われたトランはつかまれた腕を振り払うこともなくそのままにして、間近にいる相手の顔をまじまじと見つめる。
 「好きだ、トラン……お前、だけだ」
 「っ、え……」
 ぼそり、と呟くような言葉にトランが目を大きく見開く。回らない頭は一瞬思考を停止して、我に返ると同時に戸惑い思わず視線をクリスからはずした。つかまれた腕が放されるのを感じて視線を戻せばクリスの瞳は瞼の下に隠されて、聞こえるのは小さな寝息ばかりで。普段よりもずっと幼い寝顔を見つめ、トランは目を瞬く。
 「……寝、た?」
 ぼそり、と口にすればそれが確かなことだったと実感し、一気に気が抜けたトランはがくりと力を失ってその場にへたりと座り込む。酒のせいだけでなく熱を持つ頬を押さえて、何か言葉にしようにも上手く声が出てこずにただただ眠るクリスを見つめるだけで。あぁ、やら、うぅ、やら声にならない声が唇から僅かに漏れた。
 「言い逃げ、って、そんな」
 やっと言おうとしていた言葉がきちんと声を伴った言葉になれば、トランは改めて事実を認識し、額を押さえてがくりと俯く。熱を持った頬を冷ますかのように勢いよく首を横に振ってからふらりと立ち上がった。目覚めそうにないクリスにそっと毛布をかけ、その長い金の髪を指先ですくって落とす。その頬に触れようとしてからためらい、数歩離れた自分のベッドによろりとよろめいて腰を下ろす。そうして、深く深く息を吐き出して両手で顔を覆った。
 「……貴方は、わたしにどうしろって言うんですか、クリス……」



  最初はほんの些細なきっかけで。
  互いに、互いといたのは寂しさと空虚を埋めるだけだと信じてやまなかった。
  だからこの思いを、伝えられるとも思っていなかった。
  言葉にすればたった三文字だというのに、どうして今まで気付かなかったのか!



 (……あんまり、眠れなかったですね)
 陽が差し、青く染まり始めた空を見上げてトランはふと考える。ほんの少しの仮眠は取ったものの、ほとんど眠ることができずに一夜を過ごしてしまった。これもすべてクリスのせいだと責任転嫁しつつクリスを見れば、小さく呻きつつももぞりと起き出した所だった。昨夜のクリスの言葉を思わず思い返し、トランは別段何があるわけでもない、頭に入りそうにもない魔術書を持つ自分の手元に視線を落としてそちらを見ないようにして。
 「……あぁ、起きてたのかトラン」
 「いえ、……おはようございます」
 目線をあげないままクリスの呼びかけにトランが答える。声が震えていなかったかどうかはトランにはちょっとわからないが、自分でも動揺がにじみ出ていて俯いたまま苦く笑う。ちらりと視線を上げればクリスは何事もなかったかのように支度を始めていた。自分を見ていることに気付いたのか、クリスがトランを見やって。ふと、視線が合う。
 「トラン」
 「はい?」
 ぼそりと呼びかけられ、声をかけられれば顔を逸らすわけにも行かずに、トランはクリスから逸らしかけた視線ををあげる。元々頭に入っていないようなその魔術書をぱたん、と軽い音をさせつつたたんで、昨日の酒のグラスを小さな音をさせつつまとめているクリスを見つめて何でしょう、と首を傾げた。
 「昨日は悪かった。……変なことを言ったりしてなかったか?」
 「……」
 あの告白を覚えてないんですか。
 思わずそんな言葉が喉から出掛かったのをせき止める。緊張していた肩から力が抜けてほぅ、と微かな息をついて肩を落とした。安心したのか、それとも残念なのか自分でもわからないままトランはいつものように笑みを浮かべて見せる。
 「大丈夫ですよ、クリス。……何も、言ってません」
 ほんの少しの嘘を交えつつ、からかうように寝顔は見れましたけれど、とさらに言葉を続けてやればクリスの眉間に皺がよった。仕方ないと諦めているのか苦々しい顔でがしがしと髪をかき回して肩を竦めた。
 「それならいい。……さ、おまえも用意しろよ、トラン」
 立ち上がったクリスはそれだけを言うと昨日の影響がまったく感じられない足取りでそのまま部屋を出て行く。顔でも洗ってくるのだろう。視線で追ったトランの視界の中、ぱたん、と扉が小さな音を立てて閉じられた。しん、と静まり返る部屋の中、トランが背中を壁に預けて深く息を吐き出した。


 『好きだ、トラン』


 思い出すのは、昨日の言葉。酔いに任せた本音なのか。それとも、そうではないのか。
 トランに、それを理解できるはずもなく。とにかく、今問題なのは。
 「……覚えて、ない、ですか」
 何となく、わかっていたつもりだった。それでも、覚えていて欲しいと思ったのも決して嘘ではないだろう。ただ、やはり覚えていなかったのだ、と。……ただ、予感が的中しただけのこと。トランは小さくいつもよりもぎこちない笑みを浮かべると額に手を当てて髪をつかみ、苦い笑みを浮かべた。
 「……なら、わたしも、言わないでいましょうか」
 自覚してしまったココロは、永遠に身の内に抱えたままで。


2008/02/11 Ren Katase