ひとつ、線を引く。
自分の周りを一周するように、すぅっと。
何故そんなことをするのだろうか。
己に問えば、返るのは自嘲じみた笑い。
「 、 。」
「お前がいつも笑っているのが気に食わない」
二人きりの宿の一室で、不意に投げかけられた言葉に面食らってトランは目を丸くする。言葉を発した相手は、と言えば幼い表情の中眉間に深い皺を寄せてどこか溜息でもつきそうな様相だ。
自分以外に話す相手もいないのだから、その投げかけられた言葉は間違いなく自分に対して告げられたもので。だけれどもトランにはクリスのその台詞に心当たりなどあるはずがない。
「……わたしのことですか」
「お前以外に誰がいる」
トランが紫の瞳を瞬きつつ問えば、呆れたような溜息と共にクリスが言葉を返して。はぁ、と生返事を返したトランは知られぬ様そっと肩を竦めてそれ以上聞く気はないとばかりに背中を向けた。トラン、とかけられる声はあえて聞かないフリをして。
完璧に拒絶をする意思こそないが、いきなり言われたことに心当たりがない以上、食って掛かるのも面白くはない。それならばあえて言葉は返さずにいたほうがいいだろう、などと思って。
「……どうして」
ぽつり、とトランの背後で低い声が落ちた。溜息混じりの吐き出し。
「どうして、お前はそうやって隠し続けるんだ」
無意識に、トランの手が止まった。持っていた小さな瓶がグローブに包まれた掌から落ちて、かしゃんと小さな音を立てる。肩越しにトランがクリスを振り返れば、クリスの目は真っ直ぐにトランを見ていた。
何かを言おうとトランの唇が開かれるが、言葉は音にならず。ただ一言、クリス、と名前を呼ぶに留まった。
線を、引く。
自分の周囲に、一本だけ、すぅっと、気づかれないように。
絡んだ視線を逸らせずに、トランはそのまま押し黙る。どれぐらいの時間かはわからないが、しばらくしてクリスの方からその青の視線を逸らした。内心の動揺を悟られないようにトランもまた、クリスから視線を逸らす。
先ほど落としてしまった瓶を拾い上げ、鞄の中にしまいなおす。妙に鼓動が大きく聞こえて、トランは僅かに眉を寄せた。動揺するなんて、らしくない。
線を、引く。
誰にも入られないように、誰も入れないように。
そのまま沈黙が降りて。目を逸らして背中を向けているが故に整理し終わった荷物から視線を上げることも出来ず、トランはじっと己の手を眺める。やましいことなど何もないはずで、それなのにクリスを見ることが出来なかった。
声をかけることが怖い?
声をかけられることが怖い?
(あぁ、そうか)
距離が、近いから、だ。
それは、身体の距離ではなくて、精神的な、それ。
精神的な距離が妙に近く感じてしまうのは恐らく、間違いではなくなっている。
近づいては、いけない、のに。
線を。引かなくては。
引かれた線は、まだ、そこにあるのだろうか。
「……気のせいですよ。あなたの」
声は震えていなかっただろうか。きちんと口元は笑えていただろうか。
クリスは時折とても聡いから。気づかれてはいけないから。
「トラン」
「……わたしは、何も隠したりしませんよ」
振り返る。青の瞳と真っ直ぐに向かい合って、トランは口元に笑みを形作る。
笑え、と。心の中で誰かが言った。
そのまま足を外へと繋がる扉に向ける。視界からクリスの金の髪と青の瞳が消えて、心の中で静かに息をついた。
(悟られるな)
何を、ということではなく。ただ、そう思った。反射的に。
トラン。
クリスの呼びかけは聞かないフリをして、そのまま扉のむこうへ出た。後ろでに扉を閉めて、目を閉じる。そうして、額に手を押し当てて、深く深く息を落とした。
線を引く。
誰も、これ以上近寄らせないように。
「……わたしは、」
こえは、だれにもとどかずに。
2008/04/09 Ren Katase