Suicide Syndrome


 【ショートストーリー詰め】

■03はR18につき未掲載。



















+++


■01
※いちばん最初に書いた軍犬眼鏡のような何か。導き手に名前があります。



 真っ暗で、何も見えない。
 何かがあるはずなのに、何もない。
 見えるはずなんだ。
(何が見えるの?)
 何が。
 問いかけの言葉。何が。繰り返すのは自分の言葉。
 伸ばした手のひらの先。指をすり抜けるようにこぼれ落ちて掴めなかったもの。
 でも見えるはずのものはそれじゃない。
(あなたも、『未練』があるのね)
 投げ掛けられる言葉。未練。繰り返す言葉。
 手のひらを掴まれたような気がした。浮上する意識。


 自由になる左側だけの視界に見えたのは、紫と黒を混ぜたような不思議な色の空。数秒を要して、流れる灰色の雲にそれが空だと認識する。
 何故自分は仰向けに倒れているのか。しかもおそらくは地面の上、周辺には木々の形も見えるのだから間違いではなさそうだ。
「目が覚めた?」
 耳に届いたのは無機質かつ小さな少女の声。痛みもない身体を起こせば自分の右側、眼帯で覆われ見えないぎりぎりの距離にひとりの少女が座っていた。
「あなたも、私と行くのよ」
 さらりと言ってのける言葉、その声の響きに既視感を覚えるもののそれが何かはわかりそうもない。
「……戦力ですか」
「そう。ひとりでは意味がないから」
 次いだのは男の声で、さらに少女の言葉が続く。座る少女の左側。軍服と軍帽に身を包んだ青年の姿。
 その、眼鏡の奥の漆黒の瞳と目があって。
(……『それ』)
 誰かわからないけれど、どこか懐かしさと共に締め付けられるような苦しさのような痛みのような。
 そうして記憶がないとふと気づく。騒ぎ立てるほど子供でもない。少なくとも名前だけ覚えているらしいのは確かだったけれど、何故こんな場所にいるのかはわからないし、思い出せもしないのだから。
「わたしはレティス。こちらはエヴァリスト」
「……アイザック」
 名前に少しだけその切れ長の瞳が瞬いて、薄い唇が名前を繰り返す。覚えている? 知らない? わからない。
「行きましょう、アイザック、エヴァ。説明は道中でするから」
 赤いスカートを翻し小さな少女が歩き出す。付き従うように歩き始める青年の半歩後ろにつけば、何とはなしに懐かしさのようなものを感じた気がして。
「……何だ?」
「いいや、何でも」
 一瞬視線が合う。だけど逸らす。疚しいわけではないし恥ずかしいわけでもなくて。
 『それ』だ。
 唯一、意識に残るもの。
(……その『目』は)

 その『目』はきっと、いつかアンタを殺してしまう。


+++




















+++


■02
※01前提の軍犬眼鏡。眼鏡の目に固執する軍犬はいいよねという話。エヴァR1ネタバレっぽいもの注意。



 それは、いつもの戯れのような。


 指先を伸ばし、低い体温の頬に触れる。ちらりとこちらに向けられる視線には戸惑いも嫌悪もなく、いまいち感情が読みきれない。
(それとも)
 アイザックがしようとしていることが、『視えて』いるのか。何が正解なのかは本音を表に出さないエヴァリストのこと、結局わかりそうにない。
 手のひらをゆっくりと頬に当てる。撫でるように動かせば指先が眼鏡のフレームに触れる、ほんの少し引っ掛かるような感覚。
 抵抗するような意思はないように見つめてくる黒曜石の目は、眼鏡のレンズの奥でただ静かに瞬いた。
 親指で頬骨を辿っていた手を離して、そのまま顔を近づける。眼鏡の細いフレームに指を引っかければ、取ることを促すような仕草でそっと瞼が伏せられた。
 その仕草に導かれるように眼鏡を外し、手の届く範囲のテーブルに置けばかちりと音がして、伏せたままの瞼が僅かに揺れたようにも見えた。
 男にしては整えられた眉を辿れば、血管の僅かに透けた薄い瞼に辿り着く。指先で触れれば長い睫毛が微かに揺らいだ。
(……この、下、に)
 混じりけの一切ない、深い闇にも似た黒曜石のような目がある。知らず、喉が鳴ったような気がした。
 ……未来を『視る』目だ。
(……この『目』があるから――エヴァは)
 いつか。
 ゆらりと心の奥底に沸き上がる深くくらい衝動に逆らうこともなく、その瞼に唇を寄せる。躊躇いなく唇を開き、瞼に緩く歯を当てた。
 このまま抉って、喰らってしまえば。
「……アイザック」
 そうして、自分を静かに呼ぶ声に衝動から引き戻される。声の響きは常と変わることもなく、咎めるでも嫌がるでも戸惑うでもない。ただ、名前を呼んだに過ぎないほどに自然な声。
 噛み付くのを止め、歯を当てた部分に慈しむような口付けを落とせばまた瞼が僅かに揺らいだ。逆の瞼を親指で柔らかくなぞればもう一度揺らいでからその薄い瞼が持ち上がる。
 黒曜石の瞳と碧玉の瞳との視線が絡めば、どちらからともなく僅かに笑った。
「楽しいか、アイザック」
「いつも聞いてんな、エヴァ」
 そんないつもと同じやり取りと、そうだなと呟こうとした薄い唇を軽く塞ぐ。女性の柔らかさには程遠いそれは、一瞬でも確かに体温を絡め合う。
「……そっちはどうなんだよ?」
「……お前の好きにすればいい」
 くすり、とはぐらかすような笑み。端を引き上げた唇に軽く噛みつけば今度は名を呼ばれることもなかった。
 そこに意味も理由も必要はなくて。
(そう、これはただの戯れだ)


+++





















+++


■04
※生前妄想注意。ちょっと長めも注意。Rネタバレっぽいような、そうでもないような。



 血塗れの姿のまま夜の街を歩く。誰の姿も見当たらない街はひっそりとしていて、ただ街灯の灯りに群れる蛾の姿ぐらいしか視界には入らない。
 石畳の道を歩き慣れた方角に足を向ける。僅かに小高い丘の辺り、目的の屋敷が見えた。近づくほどに屋敷の外観は大きく、独りで住むにはいささか広すぎるのではないかとアイザックはいつも思う。
 正面の門はすでに閉ざされ、こんな深夜なのだから開くはずもない。視線を巡らせいつも通りに屋敷の横へと回る。連なる塀からはみ出た木の枝をしなやかな跳躍でもって掴み、身体をその上へと跳ね上げた。
 目的は最上階の角部屋。枝の上、合間から見えるその部屋は微かに明かりがついているような様子が見てとれた。部屋の主は仕事中か、はたまた本の虫と化しているのか。どちらにしろまだ起きているのは好都合。
 木の枝を辿り、軽やかに窓へと近づく。開けてと願うようにその硝子を鳴らす必要もない。そこはいつも開いているのだから。誰でもないアイザックだけのために。
 近付いた瞬間に消えた明かり。窓を指先で押し開ければ抵抗もなく開く。きぃという微かな音で部屋の主が振り向いた。
「よぉ、エヴァ」
「アイザック」
 窓枠に腰かける闖入者たるアイザックに対して驚いた様子もなく名前を呼べば、ゆったりとした足取りで近づいてくる。それと同時に窓枠から降り立てばすぐ目の前に立った彼が軽く眉を寄せた。
「血の臭いが濃いな。また、お前はそんな格好のままなのか」
「今更じゃねぇか。……お前がいなきゃ落ち着かねぇんだよ」
 腕を伸ばし、その痩躯を腕の中に閉じ込める。耳元で聞こえたのは小さな溜息、ついで仕方ないな、と言うどこか諦めたような声。緩やかに背中に回る腕は、了解の合図とも取れた。


 +++


 ふっと意識が覚醒する。聞こえるのはすぐ傍からする小さな寝息と、おそらくは普通の人間では簡単には聞こえないだろう遠くから響く微かな足音だ。
 アイザックの耳には人間には到底聞こえないだろう音までがよく届く。聞こえる音の響きから考えて、玄関の辺りだろうか。こちらに来るとすればまだ時間がかかるはずだ。
 腕の中におさまったまま穏やかな寝息を立てる姿に視線を向ける。深く寝入る姿は普段の様子からは想像もできないほどに幼く、あどけない。薄い瞼と長い睫、普段は鋭い印象を与える表情は瞼を閉ざすことでひどく幼い印象になる。
 アイザックが目覚めたことで僅かに居場所が変わったのか、小さく呻いて身じろいでから温もりを求めるように身体を寄せてくる。何度も果てて疲れきったのだろう、腰に回した腕で引き寄せるようにしても目を覚ます様子はない。
「……と、さん……かあ、さん」
 人間よりもよほど良い耳が拾ったのは微かな声。腕の中で眠る彼の、小さな寝言。力一杯掻き抱きたい衝動に駆られながらもそっと髪を撫でるに留め、その黒い髪に顔を埋めるように頬を寄せる。
 普段から泣きもしないのはもちろん、取り乱す様子すら見せないアイザックの『親友』は、腕の中で眠るときだけほんの少しその緊張を緩めるのか。すやすやと眠り続ける姿はどこか頼りなくも見えた。
 ひとりでいるとあまり眠らないらしいエヴァを気遣いこのまま朝までゆっくり眠らせておいてやりたいとは思うものの、聞こえていた足音はおそらくこれから近づいてくるものに他ならない。
(……しかたねぇなぁ)
 溜息をひとつ。黒い頭を引き寄せるようにしながらわざとくしゃくしゃと掻き回すように撫でて、男にしては細い腰に回していた腕を離して手を伸ばしサイドテーブルに触れる。かちゃりと音がして眼鏡のフレームが指先に触れたのだとわかる。
「エヴァ。誰か来るぜ」
「ん……」
 髪を掻き回した感触で僅かに覚醒したのだろう不機嫌そうな声が首筋から聞こえ、触れあっていた肌が少しだけ離れた。ふるふると緩く首を振った姿にサイドテーブルから掴んだ眼鏡を差し出せば、無言で受け取って顔に押し込んだ。
「……誰が、来る?」
「使用人だろ。……何となく用向きはわかるけどな」
 寝起きの不機嫌な声に簡潔に答え、腕の中からするりと抜けていく白い肌の背中を追うように手を伸ばしかけて止める。近づいてくる足音はそろそろこの部屋の前まで辿り着くはずだ。
 ガウンを軽く羽織るように腕を通した細い背中がぺたぺたと裸足の足音をさせながら部屋の扉へと歩いていく姿を見ながら毛布に潜る。くぁと小さく欠伸を噛み殺しながら視線だけでそれを追った。
 しばらくして、小さく響くノック。応えるエヴァリストの声と、それに返る使用人の声。本人たちにとっては微かでしかない音量は、アイザックにとってははっきりと聞こえるだけの音量に等しい。予想通りの会話に目を伏せたまま笑みを深めた。
 わかった、と答えるエヴァリストの声、失礼致しますと締められた使用人の声に改めて閉じていた瞼を開く。ぺたぺたと歩いて近づいてくる音と、遠ざかる足音とが重なって響いた。
「……とある将校が行方不明だそうだが。アイザック、心当たりは?」
 それは聞くと言うよりは確かめるような言葉の響きで。ベッドまで戻ってきた姿が腰かければやんわりとスプリングが受け止めて沈み込む。肩越しに振り返るように見る闇の中にあってなお黒い瞳と、楽しげに細められた青い瞳とが視線を絡ませた。
 数秒の沈黙は肯定。
「……お前か」
「ご明察」
 それ以上確認する必要も存在しなかったのだろう、そうかとただ一言だけ答えればもう一度だけアイザック、と名前を呼んだ。
「いつも言うが、落ち着くより報告を先にしてくれ。その方が早い」
「善処しまーす」
 ひらりと手を振り軽快に答えれば眉間に僅かに皺が寄ったようにも見えた。口許を歪めればやれやれと言うような深い溜息が聞こえた。
 ベッドについている手を取り、驚いている表情に笑みを深めながら引き寄せる。バランスを崩した身体はあっさりと腕の中に落ちてきて、抗議の台詞を吐こうとしたのだろう薄い唇を己のそれで塞いだ。
 重なった唇に舌を這わせれば瞼が落ちる。歯列を割って舌を絡めながら身体を引き寄せて抱き締めた。ややあって絡めた唇を離せば、アイザックの上でエヴァリストが身を起こす。また何かを言われる前に手を伸ばし、その眼鏡を外してテーブルに置いた。
「……アイザック」
「今日はもういいだろ、寝ようぜ」
 時間は深夜だ。今から何をしたところで貴重な睡眠時間が削れることはまず間違いない。少し考えるような表情を見せてから諦めたのか納得したのか。頷きつつ自分から腕の中へとおさまって深い息を吐いた。
 抱き寄せるようにした腕の中、先程までとは違う肌を隔てる布の感触。絡み合う体温が欲しくて着込んだままのガウンの前を開こうと指先で引けば、引き離すように胸を手のひらが押した。
「お前、また……」
「いいだろ。……それに、他の奴のとこ行ってほしいか?」
 何度も繰り返した問答の答えはわかっている。それでもあえて問いかければあからさまに不機嫌そうな表情を浮かべ、ふいと視線が逸らされた。
「……行けばいいだろう」
 この『親友』の垣間見える子供のような幼い姿が見られるのは自分だけ、という妙な優越感。そっぽを向く見ようによっては拗ねたような姿に笑い声を圧し殺しながら抱き寄せ、そのまま身体を反転させる。
 シーツに沈めた身体を縫い付けるように手首を掴んで、露にした首筋に緩く歯を立てる。ひくりと喉が動いて、耳に届く微かに息を飲む音。
「……冗談に決まってんだろ。お前以外のとこなんて行かねぇよ」


+++





















+++


■05
※SSというよりは独白のような短文。堕ちていくエヴァと捕まえるアイザ。



 落ちる、墜ちる。
 目は開かず、指先ひとつも動かない。ただ、墜ちている、と言う感覚。怖くはない、つらくもない。むしろ心地よいぐらいの深い絶望と孤独にも似た何か。
(私、は)
 このまま墜ちれば。楽になれるのかと。
 投げ出した腕が宙を掻くような、うるさい音も何もかもを失うような。夢はどこまでで、どこからが現実なのか。
 色んな感覚が入り雑じり、何かを考えていた意識すら霧散して消える。深く深く墜ちる感覚は、水の中のような心地よさすら与えてくれるような気がして。
 ――委ねて、しまえば。
「……――!」
 腕を掴まれたような気がして、目が覚めた。薄く覚醒した意識、確かめるように緩く腕をあげる。絡まった指先、そこから繋がる大きな掌と男らしく鍛えられた腕。
 視線をゆっくりと動かせば空を映した隻眼と目があって瞬いた。
「……アイ、ザック」
 確かめるように名を呼べばほっとしたように表情を崩す。絡められた指先がほどかれ、骨ばった手のひらがゆったりと髪を撫でた。気持ちよさに目を細めればそのまま唇が重なり、額と額が微かに触れた。
「……大丈夫か、エヴァ」
「……夢を、見ていた」
 問いかけに返すのは囁き声。視線は素通りして、先刻夢に見た感覚へと意識は向けられる。怪訝な表情を浮かべる姿はそのままにさせ、エヴァリストはそのまま言葉を続けていく。
「墜ちるんだ、どこまでも」
「誰もいない、何もない場所にずっと墜ちていく」
「……そうして、誰かが私の腕をつかんだところで目が覚めた」
 ぼそぼそと呟く言葉をただ聞いていたアイザックはゆっくりと腕の中に抱き寄せる。夢から目覚めたばかりの姿は何もすることなく、首筋へと顔を埋めた。
「じゃあ、その誰かが俺だな」
「一緒に墜ちてやるよ。……独りになんて、させないからな」


+++





















+++


■06
※生前妄想注意その2。あとちょっとだけ04と似てるかもしれない。



 闇へと落ちた意識が決して強くはない揺さぶりによってゆっくりと覚醒していく。薄く開いた視界、すぐ傍から感じる他人と呼ぶには近すぎる存在の体温に微睡む意識のままそっと寄り添う。
 頭上から小さく笑う声とエヴァ、と自らを呼ばわる時間に配慮したかのような微かな声でゆっくりと黒曜石の瞳を瞬いた。自分の置かれた状況と大体の時間を把握するのに数秒を要して。
「……どうした、アイザック」
 自分を腕の中に抱いたままの彼が起こしたのだと理解すればぼそりとその名を呼んだ。散々上げさせられた声で喉が悲鳴を上げているのか、咳き込むのをかろうじて耐える。
 悪戯に指先が自分の髪をすく感触に身を委ねたまま答えを待つ。遊んでいるようで彼の為すことには意味がある。髪をすく動きはただの手持ちぶさたなのだろうが。
「……足音がする」
「足音?」
 こんな深夜に? 問おうとした言葉は重なった唇に溶ける。重なった唇はそのまま、闇の中でもわかる青い隻眼が周囲を警戒するように細められた。
 僅かに唇が離れ、息を吐く。それでもまだ唇が触れるか触れないかの距離を保ったままの姿に口を閉ざしたまま視線だけを巡らせる。
 急ぎの用事ならこのような深夜に主であるエヴァリストの部屋を訪れる使用人がいないわけでもない。だがそれならばここまで警戒する様子を見せるはずがないのだから。つまりそれが意味するのは。
「……奇襲か? わざわざこんな深夜にご苦労なことだ」
「それよりも屋敷の守衛は何してんだよ」
 呆れたような口振りに笑みを深めながら身体を起こす。ぎしりと身体が軋んだ気がするが小さく呻くだけに留め、不満げな様子を見せながら横で同じように身体を起こす姿に視線を向けた。
「敵を欺くにはまず味方から、と言うだろう」
「……オレが来るのを隠しておいて、内通者を炙り出す、か。相変わらずだな、エヴァリスト=ヴァルツ大尉」
 フルネームで自らを呼ぶからかうような声には当然とでも言うように口許を歪め、簡単な身支度のままベッドに腰かける。同じように簡単な身支度を終えたアイザックに視線を向けた。
「随分な物言いだな、アイザック=ロスバルド中尉。……気付いていただろう?」
「まぁな」
 それ以上は言葉も必要ないと言わんばかりに立ち上がった姿を背後から眺め、自分はその場から動かないままアイザック、ともう一度その名前を呼んだ。
「生かして捕まえてくれ。五体満足かは問わない。喋れるだけの頭と口があればいい」
「了解」
「お前が聞き出すなら殺しても構わん」
 軽々とそれが当然であるかのようにかわされる血腥い会話にも何を思うこともなく。普段からつけている眼帯をつけながら居場所を確かめるように周囲に視線を巡らせる姿を見たまま、ふと思い出したように口を開く。
「……怪我はするなよ」
「……善処するさ」
 ひらりと手を振り、犬と言うよりはまるで猫のように足音を立てないままするりと部屋から出ていく姿を見送ってからテーブルに置いた眼鏡をかける。クリアになる視界に安堵の息を吐きつつ軽い寒気を覚えて身を震わせた。
(……そうか)
 つい先刻まで比べ物にならないほど温かい体温に接していたのだから寒くても当然だ。そしてそんな風に考えた自分に我に返って自嘲するような表情を浮かべる。
 触れるのも触れられるのも慣れきってしまっている。それが当然になっている。……そしてそれが。
(手離せない)
 ……何か、手を離す理由がない限りは。
 物音ひとつしない静寂の中、エヴァリストは耳をそばだてる。もしかしたら聞こえるだろうか。そんなあるはずがないことを思いながら。
 しばらくして鼻に届く生臭い錆の臭い。そして扉のドアノブが回る音。静かに瞑目していたその目を開くのと彼が姿を表すのはほぼ同時だった。
 右腕が赤黒く染まっているものの『手土産』はその手にはない。血の臭いもそのままに近寄ってくる姿に立ち上がれば、そのままその両腕の中へと閉じ込められる。
「遅かったな」
「ついでだったんでな」
 何が、を問いかける必要性はなかった。血の臭いと手土産がその手にないことだけで、非常に優秀かつ忠実な軍犬が『内通者』を噛み殺して来たのだと言うことは容易に知れる。
「シナリオは?」
「賊が屋敷内に侵入、偶然居合わせた中尉がこれを殺害するも犠牲者ひとり、が妥当なところだろう」
 自分から聞きいておきながらふぅん、と気のない返事と共に噛みつくような口づけが落ちてくる。かけていた眼鏡ははずされ定位置に戻り、急くような動作で体温の違う掌が肌に触れた。
 確かめるように触れ、それと同時に快感を煽るかのような指先はまだ新しい血に濡れていて時折ぬるりとした感触が伝わる。ぞくりと背筋を伝う感覚に息を飲みながらも身体を寄せ、その首筋へと顔を埋めて目を閉じた。
「……汚れるな」
「今更、何を……」
 言うのか、と。顔を上げて抗議しようとした唇は先程とは違う柔らかく触れるだけの口づけで止められる。僅か上げた視線の先、青い隻眼が何か物言いたげに細められて。
 そのままその隻眼が視界から消えて、首筋に触れる唇の感触。軽く自分を押しやる動きに逆らうことなくベッドに身を沈めれば、覆い被さる姿を見上げててその頬に手を伸ばした。
「……エヴァ」
「どうした?」
 自分を見下ろすその表情がどこか、不安げにも見えて。呼び掛ける言葉に声を返せばその表情も一瞬で、普段通りににやりと口許を歪めた。
「何でも」
「……なら、いい」
 その首に腕を回し、自分の腕の中に閉じ込めるように距離を更に縮めながらそっと目を閉じた。


+++