Suicide Syndrome


【君を_す夢を見た】

 暗闇の中をただひた走る。右も左も上も下も、そもそも真っ直ぐに走っているのかどうか。それすらもわかりはしない闇の中、だからこそ夢だと言う認識はあった。目覚めなければと言う思考は思い付いた瞬間に霧散して消える。だから、ただ走っていた。強迫観念のように。
 やがて疲れたように走る速度が緩む。視界の先、果てはおろか何もあるようにも見えない闇。だがそこに『誰か』がいるような気がしたから。
 走ることにだけ向いていた意識がそれを認識すれば、今度はその意識が別の方向に切り替わる。あぁ、と思った。見えない視界の向こうにいるその存在。それを。
 ――殺さなければならない、と。
 意識を殺し、足音を殺す。相手はこちらを向いているのか、それとも背中を向けているのか。それすらもわからないまま、何かに導かれるようにその手を伸ばした。指先が触れる感覚。滑らかな肌と低い体温、手のひらにすっぽりと収まりそうなそれ。夢の中の意識は一瞬だけそれを人間の首と認識した。
 ふと視線をあげた。手のひらの先、自分が首を捉えた『誰か』と視線があったような気がした。見えるはずはない。これは夢なのだから、見えないのならきっとわかるはずもない。だからただの気のせいだ。意識の端でそんなことに納得した。
『……殺していいのか?』
 耳の奥、頭の裏。聞き覚えのあるような声が聞いた。殺さなきゃならない。意識だけがただ音にもならずにそう答える。首を捉えた指先に僅かに力を籠めた。ひくりと喉が動く感触。指先から伝わるとくとくと脈打つ感覚。生きていると言う証。
 これを止めなければならない。理由も事情も思い付かないまま、ただそれだけを思った。
『……お前がいいなら、殺せばいい』
 届いたのは諦めるような悲しそうな響き。それを合図にぐっと指先に力を込めた。首であろうと自分に引きちぎることなど容易い筈だった。だがそれは駄目だと思った。だからゆっくりと、子供が虫を悪戯に戯れのように引き裂き殺すのではなく。死に逝くものを、その姿を見届けるような仕草でゆっくりとゆっくりと息を止めさせた。
 一度だけ、首を絞めた相手の指先が首を捉えた手首に触れた気がした。抵抗するわけではなく、まるで労るような、慈しむような。自らを殺す相手にするにはあまりにも場違いなその仕草に驚きながらもその手はすぐに離れ、落ちる。
 死んだ。
 そんな認識は早かった。何人も殺してきたのだから当たり前だった。だけどいつものような満足感などどこにもなかった。あったのは深い喪失感、深い絶望。殺したくなかった? 違う、殺したかった。殺さなければならなかった。それならどうして。
 自問自答に答えは出ない。目の前に横たわるだろうその死体の側に座り込み、もう一度手を伸ばした。指先が触れる。触れた先、先程は暗闇に飲まれて見えなかったそれが薄ぼんやりと見えた気がした。
『……どうして殺した?』
 あの音が言う。何故殺したと問いかける。わからない、ただ殺したかった。殺さなければならないと思った。触れた指先、そこに見えるのは見覚えがあるような口元。それは殺されたはずなのに、どこか満足げにも見えて。
 指先で唇を辿り、輪郭をなぞる。目を閉じたその表情。その顔を忘れるはずもない。知らず、小さく息を飲んだ。


『……エヴァ?』


 微かに音になった自分の声で目が覚めた。アイザックは視線を巡らせて見慣れた部屋であること、暗闇に飲まれたそれらからまだ時刻が深夜であることを確認する。自分の心臓の音がひどくうるさかった。まるですぐ耳元で鳴っているかのような印象すらあった。
 嫌な汗をかいているような気がして深く深く溜め息をついた。そうしてから、右腕が動かないことに気づいて腕の中の存在を思い出す。暗闇の中でもなお暗い黒髪。うつむくようにしてそこにいるためかアイザックからは僅かに髪の間から覗く耳と頬の輪郭、剥き出しになった細い肩ほどまでしか見えていない。
 ぞくり、と背が震えた。さぁと心が冷えるような感覚と共に今しがたの夢を思い出す。エヴァリストを抱いていない方の手のひらでゆっくりとその頬に触れる。そっと壊れ物を扱うような手つきで触れながら覗き込むように体勢を変えれば瞼を閉じたあどけない顔が見えた。
 唇をなぞり、頬に触れる。僅かに伝えてくる体温と微かに静かに繰り返す呼吸に心底安堵の溜め息をついた。
(……エヴァを、)
 殺した。あの生々しい夢は覚醒したことでだいぶ薄れたものの、殺したと言う意識がまだ残っている。この細い首に触れ、ゆっくりと締め上げた。手の中で動いた喉と脈が打つ感覚はまざまざと思い出せる。
 腕の中のエヴァリストを起こさないようにしながらそっと抱き寄せた。意識もなくことりと身を委ねてくる姿は低い体温と静かすぎる呼吸とあいまって先程の夢を思わせる。ただ違うのは、今腕の中にいる彼は眠っているだけだという、ただそれだけ。
「……」
 謝ろうとしてから言葉を止めた。夢の中で殺したことを謝罪したとして、眠るエヴァリストには届かない。例え起きているときに言ったとしても不思議がられるだけだろう。もしかしたら仕方ないとでも言うように笑ってくれるかもしれないけれど。その代わりとでも言うようにそっと唇を重ねた。
 触れ合うだけの唇はほんの数瞬だけ体温を溶かして混ざり合う。熱を分け合うように互いに求めた後だと思い出してもほんの少しだけでも触れ合いたかった。確かめたかった。
「……ん」
 小さく声をあげたエヴァリストが僅かに身体を身動ぎさせる。黒髪が揺れて、ゆっくりと顔が上がった。ぼんやりとした視線がアイザックを見上げるようにして緩く瞬いた。
「……アイ、ザック?」
 寝起き特有のどこか子供じみた甘く頼りない声が名前を呼んで、それに大丈夫とでもいうように頬を撫でた。くすぐったそうに目を細める姿にどこか安心しながら擦り寄るようにするその身体を抱き寄せる。
 距離を失った身体が素肌を通して体温を分け合う。目を閉じた姿に僅かに笑みを見せて軽く唇を重ねれば寝惚けたままなのだろうエヴァリストからも唇を重ねられた。
「続きは明日な。おやすみ、エヴァ」
 軽く唇を食んでから言えば納得でもしたのか頷いて首筋に頬を寄せて擦り寄る。眠気に逆らうことなくまた意識を闇へと落とす姿に安堵と同時に愛しさを覚えながら起こさない程度の力でそっと抱き寄せた。
 抱き寄せたその黒髪に顔を埋めるようにして目を閉じる。離さないかのようにしっかりと抱き締めたまま、唇だけでエヴァ、と誰よりも大切な存在の名前を呼んだ。
(……今度は、きっと夢なんて見ない)



2011/12/11 Ren Katase