「……貴様が私に何の用だと言うんだ。昨日のような用ならば答えは変わらん」
顔を合わせた瞬間、飛んでくるのは相変わらず変わりようもないあからさまな敵意と否定の態度だった。昨日とさほど変わらない言葉と共に、手を出されないためか手を伸ばしたとて届かないだけの距離を置き、腕を組みながらドアに背中を預ける姿を認めてメレンは僅かに笑う。
(まぁ、わかっていましたがね)
だがしかし、思っているよりも素直に呼び出しに応じるところを見ればあのレッドグレイヴと言う少女に言伝てを頼んだのは正解であったらしい。さすがに直属の上司にあたる存在、無下にはできないと言うことだろう。
椅子に腰掛けたメレンと、部屋の入り口の扉に背を預けたままのサルガド。距離は離れているが近づけない距離ではない。警戒しているのだろう様子はわかるが、むしろそれがあからさますぎて逆に滑稽だ。それとも、ただただ隠す気すらないとでも言うのだろうか。
「いいえ、むしろ私が昨日の謝罪をしようかと思いましてね」
ゆるりと首を横に振り、笑みを見せる。髪に隠れて片方だけしか見えない赤い瞳が一瞬だけ驚いたように見開かれて瞬き、一度は絡んだ視線がふいとそらされた。投げ掛けられた言葉を全く意図していなかった、そんな様子に見えた。
きぃ、と椅子を鳴らして立ち上がれば弾かれたように顔を上げる。僅かに身構えるような姿を気にせずに距離を詰めればすぐ前で立ち止まり、まだ赤黒い痕を痛々しく残す左手をそっと手に取った。痕が残るほど強く握っただろうか。そんな思考がふと頭をよぎる。
「っ、触るな!」
振りほどく仕草には逆らわないままにそのまま温度の低い掌が振りほどかれるままに離れていけば、気づかれないように僅かに笑みを深めてそのまま素直に手を引いてみせた。
扉を背にしているためにそれ以上離れることもできず、ただこちらを窺うような視線は変わらない。言葉を信じていいのかどうか、探るような視線にも見えて、メレンは笑みを返す。いたって穏やかに、柔らかく。おそらく彼が知る『普段通り』に。
「すみません」
「……いや」
さらりと謝罪を口にすれば、頑なだった態度が僅かに軟化したようにも見えた。左腕を庇うようにしながら小さく落ちた溜め息は安堵かそれとも。
(……やはり)
おそらくはこのサルガドと言う男、賢しくはあるが駆け引きには向かない。生前からの性なのだろうか、それはメレンにわかるはずもない。他人に対して押すばかりで引くことを知らず、ポーカーフェイスなフリをして感情がずいぶんと表に出やすい。よくも悪くも実直だ。簡単に言うならば、すこぶる要領が悪い。だからこそ。
メレンの浮かべている笑みに怪訝そうな表情を浮かべているサルガドと視線が合えば何でもないと言うようにゆるりと首を振った。自分は今どんな表情をしているのだろう。そんな風に考えた意識を外へと放り投げる。
「もう用事はいいのだろう? 私はこれで失礼する」
用事は終わったと言わんばかりに言いながら扉から背中を離したサルガドが部屋を出ていこうとメレンに背中を向ける。
――そして、その無防備な姿をメレンが見逃すはずもなかった。
すかさず距離を詰めれば手を伸ばしてサルガドの右手を後ろ手に捻り上げ、身体ごと扉に押し付ける。小さく聞こえたのは呻き声で、メレンの口元に酷薄な笑みが深く刻まれる。
「……意外と、あっさりと騙されてくれるのですね、あなたは」
「っ、……」
だからこそ、油断しやすく騙されやすい。それがメレンからの印象だった。
そもそも、こうも簡単に事が運ぶなどとはまったく思っていなかった。彼を陥れるためにいくつもの策を頭の中で練り上げながらサルガドを待っていたはずだった。失敗した場合も踏まえての様々な策を考えていたはずだった。それが、こうも簡単に必要がなくなるとは。
扉に押し付けられる寸前に身を庇ったのだろうサルガドの左腕を掴んできつく扉に押し付け、扉に縫い止めるようにすれば僅かに漏れ聞こえるのは苦痛の声。
「何が目的で、私にこのようなことをする……!」
何のために? 自分でもすでに理解しているその『理由』に薄く笑みが浮かぶ。この言葉を口にすれば。この男はどんな顔をするだろう。心に浮かぶ感覚を何と喩え、何と表現すればいいだろう。
「……目的、ですか」
小さく漏れるのは笑い声。くつりと喉を鳴らしたそれは、徐々に楽しげな笑い声となって落ちる。それを異様なものと感じ取ったのか、押さえつけた身体が緊張感を帯びたような気がした。
扉に押し付ける力を強めれば距離が縮り、挟まれる形になったまま苦しいのか痛いのか小さく呻き声を上げる。背後からその耳元に口を寄せれば肩が竦められて逃げようとするかのように身動ぎした。
「……、ですよ」
微かに囁いた声は、僅かな音量であったがサルガドの鼓膜を震わせることができたらしい。こちらを振り返る瞳が驚きで見開かれ、振りほどこうとする腕の力が強まった。
(そう、この顔だ)
苦痛と嫌悪の入り交じる表情。そしてそれを見る自らの腹の中で確かに感じるのは紛れもなく。
愉悦、だった。
「愉しいのですよ、この上なく。あなたを傷つけ、虐げることが」
「……っ、ぐ」
反論の言葉を与える苦痛で封じてメレンは笑う。最初に従わせようとした時に感じた何かも、彼の手のひらを踏みつけたあの時も。確かに自分は愉悦に近い何かを感じていた。それが何かとわからないままに、ただ求めていた。何を? おそらくはたったひとつを。
腕を緩め、身体を離す。押さえつけていた身体は力を失い、背を向けたまま扉にすがるようにずるずるとその場に座り込む。抗うことによほどの体力を使ったのか、全力で捻り上げた腕が痛むのか。はたまた両方だろうか。
「こんなことをして、ただで済むと思うなっ……」
抗い、逆らい、屈服など考えもしない。態度や行動すべてで拒絶を示す姿。
(私は、それを求めている)
扉を背にするように体勢を変えたサルガドの前に膝を突きながら手を伸ばし、その胸ぐらをぐっと掴む。手を引き剥がそうとするように掴む手をそのままにさせたまま立ち上がらせるようにぐっと力を込めて引いた。膝立ちになると同時に縮まる距離。紅い瞳に映るメレン自身の姿がまるで他の誰かにも見えた。
「私に逆らうと言うのなら、どうぞお好きなように。……何がどうあろうと保証はできませんが」
「……どういう意味だ」
抵抗しようとした掌の力が緩む。近すぎる距離は逃げることも視線を逸らすこともさせず、紅い瞳と茶の瞳とが真っ直ぐに視線を絡ませる。
「……レッドグレイヴ様、と仰いましたか」
問いかけには答えないまま、ぽつりとあの少女の姿をした戦士の名前を口にすれば、さっとその顔色が変わる。本当にわかりやすい。ふっと笑みを深めて胸ぐらを掴んだ手を離した。がたんと音を鳴らしながら扉に寄りかかる姿を見下ろすように立ち上がる。
「逆らうと言うのなら、どうぞお好きなように」
そうして、言葉を繰り返す。呆然とした表情がぎりっと眉が寄せられて睨み付けるような表情になる。瞳の奥に見えた、怒りとも憎しみとも取れるそんな光。
「……下衆が」
「人聞きの悪い。何もしませんよ、何も、ね」
言いながらもう用はないと背中を向ける。背後から聞こえたのはそれを悟ったのかどうかの小さな舌打ちと、次いで扉が開き、閉じる連続した音。肩越しに振り返ればその姿はすでにそこにはなかった。
くすくす、とメレンは声を立てて笑う。笑いが押さえられないとでも言うように口許に手をやり、笑い声を漏らした。
(あぁ、本当に)
あの青年は正しく実直で、正しく愚かだ。何も口にはしていないのに。何も実行する気もありはしないのに。言葉の裏を読み取らないままいとも簡単に子供のようにブラフに引っ掛かる。
しばらくの間……少なくともメレンの言葉の意図を悟るまでは『愉しめ』るだろう。それが長いか短いか、まだそれはわかりそうにないが。賢しい彼のこと、気づくのはそんなに遠い話ではなさそうだ。
「……何もしませんよ」
ぽつり、彼に繰り返した言葉を小さく唇から落とす。口許に笑みを浮かべたまま、先刻までその細い手首を捉えていた自分の手のひらをじっと見つめる。
「……あなた以外には、何もしません」
あなたでなければ、意味がない。
唇だけで呟いた言葉は、静寂に飲まれて消えていった。
2012/03/10 Ren Katase