あの出来事から数ヶ月が経過した。プライドを折られたのかどうか定かではないが、サルガドから抵抗する意思はほとんど見えなくなっていた。
メレンはひとの姿をしているものの、人間ではない。食べること飲むことはもちろん、睡眠すら必要としなくとも構わない存在だ。その為、本来ならば性欲などもありはしない。サルガドを犯したことも、メレンにとっては手段のひとつにすぎない。
虐げたい傷つけたい。メレンにとっては正しく目的を成し遂げられているものの、どこか空っぽでつまらない、という感情が拭えずにいた。抵抗されなければこの愉悦は満たされないのだと気づくまでにさほど時間はかからなかった。
わかったところで抵抗する意思をほとんど失っているようなサルガドはメレンにとっては少々つまらない。いつか感じた凶暴な考えもまだ早い、と言う感覚が付きまとう。
(……どうするべきか)
サルガドが自分の手によって憔悴し始めているのは理解している。逃げ出すことも抵抗することもできない、打開方法のない事態であることはそれを行使しているメレンだからこそわかっている。
ただ、全く抵抗がないと言うこともつまらないものであって。
「メレン?」
ぼんやりと意識を思考の渦へと放り投げていたメレンを小さな声が呼び戻す。目の前には二人の少女。手元にはカード。暇を持て余した導き手とレッドグレイヴの相手をしながらも意識だけは全く別の方向に向けていたのだと我に返った。
「あぁ、申し訳ありません。お二人がお強いものですからつい長考してしまいまして」
笑みを向けて緩く頭を下げ、謝罪する。やれやれと肩を竦めるレッドグレイヴと、ただ頷くに留める導き手の少女。手元のカードは最弱の手。まず勝つことはないだろう。
暇を持て余した少女たちにカードゲームをせがまれて相手を始めたのは数十分前になる。単純なルールであるが故に、とてもイカサマもやりやすい。そんなゲーム。適度に勝ちを得、適度に負ける。カードを操るものであるメレンのこと、勝率は高くなりがちだが少女たちに手心を加えないはずもない。オープンされたカードを眺め、少女たちは小さな子供のように笑みを見せた。
かたや人形に近い意識の少女、かたやその幼い姿の中に永い年月を生きる精神を持つ少女。歓声をあげてまで喜ぶようなことはないものの、その瞳や口許で喜んでいるのは確かにわかる。
「お嬢様もレッドグレイヴ様もお強くていらっしゃる」
笑みを浮かべながら言えば導き手の少女は微笑み、レッドグレイヴはどこか満足げに頷いた。新たなカードを配りながら視界の端で揺れた人影にちらと視線だけを向けた。
部屋から廊下へと繋がる扉のすぐ脇、壁に寄りかかるようにしているサルガドの姿だけがそこにはあるはずだった。
(……)
そのサルガドの横に立っているのは、いつか召喚されたのを見たリーズと言う青年だった。距離が離れているため、会話の中身までは聞き取れない。
ただ、随分と仲の良さそうな。そんな雰囲気に見えた。
メレンが知る限り、サルガドと言う男は他人に対してひどく高圧的であり、レッドグレイヴに対してのみ頭を垂れる。簡単に言えば上から目線で他人を全力で見下すような性格をしている。おそらくは彼と言う人間を知るものから見れば間違いなく同意するだろう。
それが、そもそも普通に談笑とまではいかなくとも仲がよく見える程度、というのはひどく珍しく見えた。
手元や言葉は目の前の少女たちに向けながらも、意識を少しだけ壁際の二人に向ける。話している声は聞こえず、口許に注視できる状況にもない。
少女たちとのゲームに興じながら意識は明後日。我が事ながら器用だとメレンは心の中で僅かに自嘲する。
人懐っこい笑みを見せながらサルガドに何かを話しかけるリーズ。それを受けてか一言二言で言葉を返すサルガド。呆れたような困ったような、そんな表情。
(あぁ、そんな表情も)
できるのか。と。思ってから自分の考えに疑問を抱く。何故そんなことを思うのだろう?
「さて、お嬢様そろそろお時間ですよ」
最後のゲームを終えてカードを手元に戻しながら正面の少女に笑いかける。思い出したように少女は目を瞬けば、足先がぎりぎり届くほどの高さのスツールから身軽に降りて隣にいたレッドグレイヴとやや離れた位置のサルガドへと視線を向ける。
「そうね、それじゃ行ってくるわ。サルガド、レッドグレイヴ。お願いね」
導き手の言葉にレッドグレイヴは頷き、サルガドは視線だけを向ける。ふっとその赤い瞳が上がり、メレンの茶の瞳と視線が絡む。にこり、と微笑めば僅かにびくりと肩を揺らしたのがわかった。表情を固くしてこちらを睨み、ふいと視線をそらす。
二人の少女が部屋を出て行き、それに付き従うような動きでサルガドが歩き始める。その肩をリーズが軽く引くように引き留め、一言二言、何かを話しているのだけは見えた。
(……?)
ほんの少しの、違和感。
リーズとサルガドの会話ではなく。その前の――あの視線だ。
抵抗しなくなってから、あんな視線などしばらく見たことがなかった。視線は逸らされ、抵抗はなく、ただ耐えるだけの姿をふと脳裏に浮かべて僅かに息を落とす。
それが、今になって?
ゆるりと目を瞬いてから、彼らが出ていったことに改めて気付くと同時、その扉の傍らに立つ青年――リーズと視線が合った。にこりと、笑う。
「……お嫌でなければ、一ゲームいかがですか?」
「あまり得意じゃないが、それでもいいなら」
苦笑いを見せながら近づいてきた彼はスツールに浅く腰かける。テーブルに肘をついて頬杖をつき、低い位置からメレンを見上げた視線が合う。どこか伊達男めいた風貌のせいもあってか、そんな仕草が妙に様になっているようにも見えた。
緩い動作でシャッフルを繰り返し、どんなゲームをやろうかと考えてからふと思い付いて頷く。
「ブラックジャックはいかがでしょう。ルールはご存じですか?」
「あぁ、知ってる。……まぁ、そんな優雅にやったことはないがな」
自嘲するように笑いながら軽い仕草で肩を竦め、それでもどこか楽しげな表情を見せる。笑みを返しながらカードをリーズの前と自分の前に並べ、一枚を表に返す。――クラブのエース。
「この世界は慣れましたか?」
問いかければふと顔をあげた。人懐っこい笑みを見せるリーズはあぁ、と頷く。
「だいぶな。知り合いもいたし、……気になるヤツもいるし」
言いながら自らの前に伏せられたカードを取り上げたリーズはそれを眺め、一瞬だけその青い目を瞬くとそのまま口許に笑みを刻む。そうしてそっとカードを場に伏せた。
「……おや、よろしいので?」
「あぁ」
余程よい手が出たか、それとも単なるブラフなのか。さほど深く話したことがあるわけでもない相手、そのどこか自信に満ちた不敵な表情から真意を読み取ることはできそうにない。
「ならば、こちらもこのままで」
カードは伏せたまま、言う。きょとんと不思議そうに目を瞬いたリーズはにぃと唇を引いて笑う。メレンの意図に気付いたのか否か。
運を天に任せるなど、らしくない。それでも何故か、勝負に出てみたくなった。
「call」
声が重なる。同時に返されるカード。
メレンの手元にはクラブのエースと並んだジャック。
そして、リーズの手元には。
「……スペードのブラックジャックですか。お見事」
並べられた、スペードのキングとエース。見紛うことなきブラックジャック。これが来たのならばあの自信も頷ける。
「完敗ですね」
「運がよかっただけさ」
へらり、と人懐っこい笑みを浮かべて笑ったリーズは視線を緩めて指先でゆるりとカードを撫でる。そうしてスツールから立ち上がって大きく身体を伸ばした。
「運も実力のうち、と申しますよ」
「違いない。……いいことがありそうだ」
視線の先はカード。呟くような言葉は引き当てた運を見越してなのか、そうなってほしい、とでも言うような雰囲気を含んでいた。
「よろしければまたお相手をお願い致します」
「今度は惨敗かもな」
頭を下げるメレンに、リーズは屈託無く笑う。それじゃあ、と軽い仕草で手を上げて部屋を出ていく姿をただ見送った。ばたん、と言う扉が閉まる音と共にメレンは笑みを消して僅かに息を落とす。
――気になるヤツもいるし。
つい数分前に呟くように言ったリーズの言葉。そして、妙に仲がよく見えたサルガドとリーズの姿。抵抗する意思を失っていたサルガドの睨むような視線。……心が冷えるような、そんな感覚。
視線をテーブルに向ける。置き去りにされたブラックジャック。
「……王を守る剣、ですか」
メレンの推測が間違っていなければ、何らかの事情でもって距離が近づき、諦めかけていただろうサルガドの意識がリーズという存在によってまた逆らうという方向に変わりつつある……そういうこと。
無意識に口許に笑みが浮かんだ。まだ。まだ終わらない、終わらせない。
悪戯をするかのように、カードに自らのカードを向けた。向かい合うジャックとエース、そしてキング。
「……ゲームには負けましたが、キングを渡す気などありませんよ」
+++
そもそも誰の所有物でもない。もちろんそれはメレンにも理解できている。だが、心の奥底で何かが叫んでいる。
失う前に、と。自分の玩具を取られる前に、と。
死なせるつもりはない。そもそもよほどでない限りは死の訪れない世界なのだから、喪わせるつもりなどそもそもありはしないのだ。子供のようなひどく歪んだ独占欲。自分でも理解し始めた、それ。
それならどうする?
心の底、いつか浮かんだ方法がゆらりと沸き上がってくる。
(……そう)
そうして、ゆっくりと笑みを刻んだ。そう、方法を考えるにしても、言葉としてそれを見るならばとても簡単だ。
どことも知れぬ闇の中。メレンは一度視線を上げるようにしてから優雅な所作で頭を下げた。
誰も存在しない、壁も床も見えない闇。その闇の中、小さな音と共に浮かんだ炎。ゆらり、揺らめいたそれにメレンは微笑みかける。
「……聖女様」
『メレンか……何用か』
聴こえた声に音はなく、ただメレンの脳裏に届く。普段出会うことの叶わない彼らの主――炎の聖女。
「……聖女様に、お願いがございます」
2012/04/27 Ren Katase