そもそも、その出会いは偶然であったはずで。
(……ん?)
視線の先、廊下の端。ぐったりと力無く座り込む姿が見えてリーズは目を瞬く。投げ出された肢体と、俯く姿。死んでいる、と言うことは(誰もが死人だと言う話のこの世界では)まずありはしないだろうが、少なくとも異常な光景であることはまず間違いない。
「……おい?」
足早に傍らまで近づいて顔を覗き込む。閉じられた瞼と、寄せられた眉。浅い呼吸を繰り返す口許は僅かにわなないているようにも見えた。
少しだけ悩んでから視線をさ迷わせ、誰もいないことを確認してから両腕で抱き上げる。細身の身体はその見た目に反すること無く軽々と持ち上がった。見た目通りなのだから当たり前と言えば当たり前。リーズの腕力を差し引いても成人男性にあるまじき軽さだと言うのは意識の向こうへと放り投げる。力無くだらりと下がった左手の先から長い指を伝ってぱたり、と赤いものが滴って落ちた。
(……血?)
どう見てもそれは血以外の何物にも見えない。怪我をしているらしいことがわかった以上、どう考えても放っておけるはずがない。怪我の理由すらわかりはしないが、少なくとも放置するのは得策ではないのは誰であろうとわかる話だ。
つい先日夢魔と呼ばれる妖魔に不名誉な大敗を喫したのもあり、その傷が開きでもしたのだろうか。……一瞬だけ考えたその考えを首を振ることで否定する。実際、同じように敗れた自分はこうして五体満足、傷など欠片も残さずぴんぴんしているのだから。
抱えたまま大股に廊下を歩く。抱えているところを見られることに関して言うなら自分では構わないが、抱えられているこの男がどう思うか。この男――サルガドのプライドの高さをリーズは先日の夢魔の一件も含め、数回共に行った探索でよく知っている。
そのまま廊下を通り抜けて館の片隅にある自分の部屋に飛び込む。背中で扉が閉じる音に安心して深々と息を吐いた。誰ともすれ違うことはなかったし、気配もなかった。おそらくは大丈夫。腕の中のサルガドはと言えば、目覚める様子もなく静かに呼吸を繰り返している。
(……大丈夫か、こいつ)
ベッドに横たえれば傷が痛んだのか小さく呻き声がしたものの、やはり目覚める気配はない。傷の場所と具合を確認するために服を脱がせていけば、思った以上に酷い姿に僅かに息を飲んだ。
血を流していたのは刃物で切り開かれたような肩の傷痕。包帯によって覆われていたそれは傷が開いたのか赤黒く汚れていた。その他にも血液こそ流れていないものの、殴られたような鬱血の痕や乾いた血がこびりついた切り傷がいたるところに散りばめられていた。いちばん酷いのはもちろん肩の傷痕だが、それ以外がまったく問題にならない程度というわけでもない。
眉を潜め、部屋に置いてある応急手当用の薬箱を取り出す。導き手と呼ばれる少女に願えば傷を癒す薬はもらえるだろうが、それにはまずサルガドのこの状況を説明しなければならない。そして、隠されていたと言うことは、この傷はサルガドにとって間違いなく不都合なものであるはず。それを勝手に他人に暴露することはさすがにできそうにない。
手早く治療を施しながら様子を伺う。痛みが和らいだのかどうか、先程より呼吸が穏やかになったように見えた。治療を終らせベッド脇に据えた椅子に腰かける。目覚める様子がないのはよほど疲弊しているのかそれとも他の要因か。起こしてしまうのでは、と触れるのも憚られた。
起こしていいものか、それともこのままがいいのか。散々悩んでは見るものの答えは出ない。ただ、眠ると言う行為は体力を回復したりすることには有用なのだから、眠らせておく方が彼には優しいのかもしれない。リーズはそう判断してひとつ頷いた。
「……っ」
そのまま意図せずに寝顔を眺めて少し。時間で行けば数時間は経過していない程度か。小さな呻き声と共にゆっくりと瞼が持ち上がった。血を透かした赤い目がリーズに向けられて焦点を結ぶ。
「貴様、は」
静かに絞り出される言葉。不可解だとでも言うように寄せられた眉はおそらくリーズのことを認識してはいるものの、『誰か』と言うところまではわからないのかもしれない。
「俺はリーズ。……何回かお前と探索で一緒になってるんだがな、サルガド?」
「……記憶に、ないな」
ぼそりと吐かれる言葉に取りつく島すらない。元々探索の時ですら、他人に視線をあまり向けることのないサルガドのこと、何となくではあるが予想はしていたリーズは当たってしまったそれに苦く笑う。
シーツに肘をついて身を起こすサルガドが痛みにか顔をしかめる。手を伸ばして支えようとすれば支えではない逆の手のひらであっさりと振り払われた。高い音と共にじん、と手の甲が熱くなる感覚。
「野蛮人が気安くこの私に触るな」
「そうは言われても、怪我してたのを治療したのは俺なんだがな?」
言われて気付いたのか自分の姿を眺めるように視線を向けてから物言いたげな表情を見せる。自分だと示すように喉元を指先で叩けばふいと視線を背けた。
「……余計なことを」
忌々しげに吐き出された台詞は概ね予想通りで、リーズは肩を竦めてへらりと笑い返して見せる。
「あのまま廊下で倒れて他の奴に見つかって大事になってもよかったのか?」
「……」
廊下で倒れていた自覚はあるらしい。眉間に皺を寄せてふいと顔ごと視線を逸らす姿はどこか小さな子供のようにも見えた。シーツについた手のひらがきつく握られているのを見れば、どうやら図星なのだろう。
じっと姿を見つめたままでいれば、音になるかならないかの微かな声ですまない、と謝罪の言葉が聞こえた。
「まぁ気にするな」
内心でその素直さに僅かに驚きながら答え、ふとそのサルガドの姿を見やる。リーズが治療した包帯の目立つ浅黒い肌。肩だけでなく、首や腕。普段の姿を思えば、その傷はどこもかしこも服の下になって見えない場所。いくつか表に見えているものはまだしも、やはりあの先日の探索失敗の時の傷だとは考えづらい。……特に、肩に刻まれた深い傷痕。
どう考えても、意図的につけられているのは明白だ。
「……なぁ、サルガド」
呼び掛けにちらりと赤い瞳が向く。片側しか見えない瞳は睨むような視線で、わかりやすくリーズを信用していないと言う意思表示にも見えた。直接問いただしたところで、おそらく信用していないリーズに話すような人間ではないだろうし、そもそも性格から考えて誰かに寄りかかることもしようとはしないだろう。
(……放っておけない)
自分はこの世界に来てから随分とお人好しになったらしい。リーズは表には出さないまま自嘲する。直接的なものが無理であるなら、搦め手を使うだけ。
「……俺が、他の誰かにお前の傷の話をしたら困るよな?」
わかりやすく表情にさっと怒りの色がよぎる。普通の傷ならば誰に話しても同じこと。わかりやすい姿に内心感謝の念を覚えつつ、殴りかかろうとするかのように上げられた手を軽い力で捕まえていなしながら待てよ、と言葉を続けた。
「だから、俺と取引しないか?」
眉間に寄せられた皺はそのままに、怪訝そうな表情になる。何を言い出すのだろうかとそんな風に言っているようにも見えた。目は口ほどにものを言う、とはよく言ったもの。
「俺はお前の傷やそれに関することを誰に対しても口外しない。その代わり、お前は怪我をしたら俺に治療されに来ること」
取引と言うにはあまりにもサルガドだけに利がある話だと言うことを、言い出したリーズ自身が誰よりも理解している。頑なな態度を貫くサルガドを懐柔するのであればどうするか。リーズが考えたのは至極簡単なことだった。
「……貴様に何の利がある」
「誰であれ怪我をした仲間を放ってはおけないんでね」
はぐらかした言葉に少々機嫌を損ねたのか一度は僅かに緩んだ眉間の皺がまた深く刻まれる。
「……怪我をして死んだ仲間をよく見ていたんでな。放っておけない」
真実半分、偽り半分。それでも納得したのか少しだけリーズから視線を逸らしたサルガドは小さくこくりと頷いた。深い溜め息と共にわかった、と微かな声が了承の意を告げる。
思った以上に素直に取引に応じたのは自分に利があるからか、それとも誰かに暴露されることを恐れてか。おそらく後者であることは確かだが、それでも約束を取り付けられたことを安心してリーズは僅かに笑う。
「いなかったら、待ってればいい。倒れてるよりマシだ」
誰かに傷つけられ、それを助けられてなお、リーズを警戒するような素振りすらある姿。
(……猫みたいだな)
傷つけられ、人間不信になった野良猫。……と言うには少々毛並みが綺麗すぎる気もするが。そんなことを考えながらじっとサルガドを見つめていれば、あからさまに嫌そうに身体ごと背けられた。背中にも残る傷痕に眉を潜める。
「ほら、服」
その背中に普段の服をかけてやれば礼も言わないまま袖を通して着込んでしまう。細い身体は隠しようがないが、身体を覆う包帯はひとつ残らず布の下に姿を消した。服が汚れていない所を見れば、脱がすなりしてから怪我をさせているということにる。サルガドに怪我を負わせた相手は、随分と頭が回るらしい。
さっさと身支度を整えたサルガドはベッドから足を降ろす。ふと自分が横になっていたリーズのベッドに視線を向け、シーツにべたりとついた血の跡にちらりとリーズを見る。
「……気にしなくていい」
「私を助けたのは貴様の勝手だ」
ふいと顔を背け、座ったままのリーズの横をすり抜けて扉へと向かう姿に視線は向けず、つい先程までサルガドが横になっていたベッドに向けたままで。
「サルガド」
その細い背中に声をかけた。振り返らないまでも足を止める気配だけは感じられた。
「……また今度な」
声は返らないまま、ばたん、と背後で扉が閉まる音だけが響いた。
2012/05/14 Ren Katase