Suicide Syndrome


■【自覚】

(……ん?)
 耳に届く、微かな声。二人分の話し声。聞こえたその声に廊下を歩いていたリーズは立ち止まる。声がするのは廊下の先、曲がり角のその向こう。
 何となく堂々と出ていくのも憚られ、曲がり角に身を潜ませるようにしながらそっと先を覗く。
(……あれは)
 その影はどちらも見覚えがあった。壁際に追い詰めているメレンと、追い詰められているのは――サルガド。
 珍しい組み合わせだと目を瞬くのも束の間。リーズから二人とは距離があるために話している内容こそ聞こえないものの、その雰囲気は決して甘いものではなさそうだった。
 口論とまでは言えないものの、サルガドの表情は険しい。拒絶すると言うよりは不機嫌そうな表情。対してメレンはと言えばリーズからでは角度が悪くて表情が見えない。ただ、僅かに見える口許に浮かんだのは笑みのようにも見えた。
 ふと、そのメレンの視線がこちらを見たような気がした。
 そうして。
(……え)
 縮まる距離と――重なる、唇。
「……っ!」
 小さく息を飲んで思わず壁に再度身を隠してから深々と吐息を落とした。出ていくわけにも戻ろうとするにも気づかれそうで、気配を殺したままその場に居座ることしかできないこの状況。
 ばくばくと激しく音を立てる心臓を押さえるように胸に手を当てながら深呼吸を繰り返す。らしくないと心の中で繰り返しながらよし、と頷いてその場を後にしようとゆっくりと歩き出した。
(……)
 歩きながら意識を巡らせる。こんなに動揺したのはいつぶりだろうかとわけもなく思いながら、立ち止まれずにただ歩き続ければ、不意にぐいと袖を引かれた。
 心臓が跳ね上がるような感覚と共に上げかけた声を殺して視線を下げれば、赤い瞳と目があった。
「……お嬢」
「どうしたの、リーズ?」
 横を通り過ぎようとしたリーズの様子が普段と違うことを気にして声をかけた、とでも言うところだろうか。不思議そうに首を傾げる姿にいや、と言葉を漏らしながら視線をそらす。
 まさか他人の――しかも男同士のキスシーンを見てしまって思ったよりも動揺してしまって、などと言えるはずもない。
「何かあったの?」
「何でもない何でもない。……気づかなくてごめんな」
 青い髪をよしよしと撫でながら言えば、じっとこちらを見上げる赤い瞳がゆるりと一度瞬いてからまだ怪訝そうな表情のままこくりと頷いた。
「リーズ、今度話があるの。暇なときでいいから」
 告げられる言葉に目を瞬く。探索への随行などならさほど気にすることなく話す導き手がこんな風に告げると言うことは、よほど重要なことなのだろうか。考えながらこくりと頷き返す。
「わかった。今度行く」
 普段から無表情の導き手が神妙な表情をしているように見えて、リーズは頷いて言葉を返す。それじゃあ、と踵を返した少女を見送って、リーズは安堵のような息を吐く。ぐるぐると考え込んでいた意識が導き手の存在によって冷静になれたのか、先ほどのような激しい鼓動は聞こえなくなっていた。
 小さな背中が消えたのを見計らい、廊下の壁に背中を預けてぼんやりと視線をさ迷わせる。天井を眺め、それから足元を見るように視線を落とした。
(……)
 冷静になった頭でゆっくりと思い返す。先程までの動揺と、その理由と。キスシーンを見たと言えばただそれだけた。ただ、どうしてそこまで動揺したのか。
(……あぁ、そうか)
 得心がいったとリーズはひとつ頷く。
(俺は、あの男に、)
 そこまで考えてから、僅かに笑みを浮かべる。こんなことで気づくなんて、我ながらとても簡単かもしれないなどと思いながら自嘲気味の表情をしてみせた。
 自分の中で納得してしまえば脳裏に焼き付いたキスシーンにほんの少しだけ心を揺さぶられるような感覚に眉を寄せる。この年齢で嫉妬するなど、と思いながら壁から背中を離した。
「……まぁ、仕方ないか」
 深々と溜め息をひとつ。自覚してしまったものは仕方がないのだから。あの男の性格から考えればこの感情を告げたところで無駄だろうことは想像に難くない。
 自室へと歩き出しながら考える。告げる必要はないし、告げようとは思わない。自分の中でそう決めてしまえば気持ちが落ち着いたような気がした。
 そんなに長くない距離を歩き、自室の扉を開く。見渡した視線の先、ベッドに横たわる姿にぎくりと足を止めた。
「……サルガド?」
 よくよく見ればその姿はここ数日でずいぶんと見慣れた姿で。リーズに背を向けるようにしてベッドに身体を横たえている姿は囁くような呼び掛けにも身動きすることなくそこにいた。おそらくリーズが歩き回っている時間の間にこちらに来たのだろう。そうして、珍しくもそのまま横になったと、そういうこと。
 足音を殺し、気配を殺してそっと近づく。微かに耳に届くのは荒く浅く繰り返す呼吸で、リーズは僅かに眉を寄せる。どう見ても様子がおかしい。
「サルガド」
 今度は聞こえるだけの声ではっきりと呼び掛ける。それでも身動きをしない姿は呼吸を繰り返すだけで。その姿があまりにも不自然で、そっと伸ばした指先を額に触れさせれば熱を持っているとわかった。身体の左側を庇うように横になっている姿から察するに、肩の傷から熱を出したのかもしれない。
 寒いのならばリーズの『能力』で何とでもなるが、熱いのはリーズではどうしようもない。とにもかくにも傷の手当てが最優先、と服を脱がせようと仰向けにさせれば、ぐったりとした身体はなされるがままになる。
 服を脱がせようと手をかけたところで小さく呻く声がして息が詰まった。視線を向けても僅かに眉を寄せただけで、眠る様子は変わらない。開いた胸元、よく見知った傷跡はまたナイフで切り開かれたような痕になっていた。肉がはぜて大きく口を開いた傷。
「……酷いな」
 おそらくはナイフを突き刺し、傷を開くような動きと共に抜いたような感じだろうか。ぼそりと呟きながら手当てを開始する。相当痛むだろうにただ眠り続ける姿はよほど精神的にも肉体的にも消耗しているのだろうことだけを感じさせる。
 意識のない身体ではあるものの、リーズの腕力ならばサルガドを持ち上げたりするぐらいならばどうということはない。そもそもサルガド自体が非常に細身だと言うのも理由のひとつではある。何とか包帯を巻き終えてからじっとその姿を見下ろす。
「……」
 自分の感情を自覚してしまえば、腹の中に浮かんでくるのはわかりやすい欲だ。指先を伸ばして頬に触れさせ、熱を持つ頬を撫でてから手のひらを触れさせる。
 近づきたい、触れたいと言う、欲。
(……怪我人だ、怪我人)
 自らに言い聞かせるようにしながら緩く頷いて、一瞬だけ浮かんだ感情を頭の中から追い払う。我ながらあんまりだとは思うが、男としての性だという言い訳がぐるぐると頭の中を回る。
 溜め息と共にきちんと毛布を被せ、熱を確かめるように額にそっと手を当てる。まだ熱い感触を伝えてくる額に微かに眉を寄せた。
「……う、ん」
 身動ぎ、小さな声を上げるも目を覚ます様子はない。リーズの手のひらの体温が低く感じるのだろう、気持ちよく感じるのもあるのか深く吐息を落とし、しかめられていた表情がほんの少し緩んだように見えた。
 手のひらから伝わる体温は熱く、ゆるゆると体温が混ざり合うような感覚がする。冷やした方がいいだろうかと考えながらも触れている手を離し難くてリーズは悩むように視線をさ迷わせた。
「……なぁ、サルガド」
 意識のないサルガドに向けて、小さく口を開く。目を覚ましていたとしても聞こえるかどうかの、本当に微かな声で。
「……俺は、お前の味方でいたいんだ」
 面と向かって言ったならばきっと一蹴されるのは目に見えている。だからこそ、自分に言い聞かせるかのように言葉にした。自分は、この男にとっての味方でいたいのだと。
 ゆっくりと手のひらを離す。それと同時に伏せられていた瞼が持ち上がった。熱のせいか僅かに水の膜をまとった赤い瞳がリーズを見上げる。
「……サルガド?」
 聞かれていただろうか。聞かれていたならば馬鹿が、と罵られることは目に見えている。もちろんそれを気にするほど繊細な性格はしていないつもりではいるが、少しは傷つく。こちらを見上げてくる瞳は焦点が合わない。寝惚けているのだろうかと思いながらじっと見つめ返せば、ゆっくりとその腕が上がった。行き場を失って浮いていたリーズの腕、その袖を指先が掴んで微かに引いた。
「……行く、な。……そこに……」
 いてくれ。と。音にならないまま唇がそう告げたように見えた。
 どくりと心臓が跳ねる音を聞いた気がした。袖を掴んだ腕はぱたりと落ちて、赤い瞳はまた浅黒い瞼の下にその姿を隠してしまう。速鐘を打つ鼓動を落ち着かせるように深呼吸をひとつ。そうして理解する、思う以上に信頼されているらしいと言う事実に嬉しさから笑みをこぼした。
「……ここにいる。大丈夫だ」
 俺は味方だ、と小さく言葉を繰り返しながらシーツに落ちた手のひらを緩く握る。起きていたら大目玉を食らいそうだと内心で思いながら、そっと身を屈めてその額に口づけを落とした。



2012/06/28 Ren Katase