Suicide Syndrome


■【布告】

 自覚したといったところで奇妙な関係が変わることもない。律儀にきちんと部屋まで現れるのは以前からの『取引』があるからで、サルガドにとってはそれ以上の存在ではないのだと理解はしていた。
 長く話してみればさほど話し難い男でもない。対人の接し方に非常に難はあるが、それさえ気にしなければ頭が切れる男だ、と言うのがリーズの認識だった。
 パンデモニウムの中を詳しくは知らないが(もしかしたら知っているかもしれないが、少なくとも今現在のリーズの記憶にはない)、そこの出身だと言うならばエンジニアに片足を突っ込んでいても何らおかしいところはないのだ。
 頬杖をついたままぼんやりと眠る背中を眺める。目の前で何も気にせず無防備に眠るようになった姿は自覚した感情とも相まって触れたいと言う欲を呼び起こさせる。
 告白もしない、触れることもしない。自分で決めたことだからこそ覆すわけにはいかない……と思いつつも、人間である以上感情を簡単に抑えていられるわけでもない。
 触れないこと、告白しないことを課した上で、自分にできることを考えるならば。
 サルガドを、彼を傷つける『誰か』の手から守ること、だろうかと考える。
 一度は考えたものの、きちんとした認識としてはなっていなかったとふと思う。それは言葉にするだけならば随分と簡単で、あっさりとしている。……だが実際にはそううまくいくものでもない。そもそも、誰がサルガドを傷つけているのか、リーズにはまだ判明できていないのだ。
 手を伸ばしてその頬に触れかけ、指を止める。触れたら目を覚ましそうな、そんな気がした。触れるような距離にいるのに触れられない。
「……ぅ、」
 見下ろしていた思うより幼い横顔が小さく呻いて瞼を開く。ぼんやりとした様子のまま、自分の肩を確かめるように指を触れさせ、びくりと身体を震わせる。息を飲む音が確かに聞こえた。
「サルガド、俺だ」
「……、」
 小さく声をかければ、は、と安堵の溜め息が耳を掠めて、ゆるりと首が巡る。赤い瞳がリーズを確認するかのように見上げて、髪と同じ色の男にしては長めの睫毛が揺れた。
 握られていた掌が緩み、見えた右手の指先。形のよい爪についた赤い何かにふと視線が行った。
「サルガド、それはどうした?」
「……それ?」
 問いかければ不思議そうに視線を指先に向ける。赤く染まる爪に気づいたのかあぁ、と小さく声を漏らしてからまたゆるりと握った。
「……あの時、当たったか」
 どこか憎々しげに吐き出されるそれに、言葉の中身を何となく理解する。おそらくは肩の傷を作った相手に抵抗したときにでも当たったのだろう。ただ傷を負わせられている、のではなく抵抗する意思を見せていると言うことか。この男のことなのだからそう簡単に屈しないだろうことは想像に難くない。
「なぁ」
 小さく声をかける。逸らした視線を組んだ指先に落とした。視界の隅で促すような視線がこちらに向いたのを見た気がした。伺うような、物言いたげな目線。
「話す気はないか」
「……何をだ」
 返される言葉は硬い。わかっていて問い返す、そんな風にも聞こえた。
「お前に暴行を加える相手のことをだ」
「貴様に何ができる」
 否定の言葉はリーズの言葉の最後に被せるような強い響きで、視線を向けないリーズを見上げている目線だけは感じることで理解できた。
「私がここにいるのは貴様との取引があるからだ。……私のことをそれ以上詮索するな」
 振り返れば、リーズから身体ごと背けられている姿。細身の背中に手を伸ばしかけ、止める。一瞬、触れたいと思った感情を押さえつけて僅かに笑う。わかっていたと言えばわかっていたのだから、ショックを受ける必要もないはずなのに。
 手を握り締めて立ち上がる。ぎしりとベッドが軋む音と共に緩く身動きする衣擦れの音が耳に届いて、振り返るも動かない姿だけが見えた。


 +++


「メレン?」
 ふと視線の先にいる姿に声をかけた。誰かを探すような素振りで周囲を見ていたメレンは声に振り返り、穏やかな表情で微笑んで普段通りの振る舞いで緩やかに頭を下げる。
「これはリーズ、ちょうどいいところに」
「ん?」
「お嬢様がお呼びです」
 いつか言っていた『話』のことだろうか、と考えを巡らせながらふ、とメレンの端正な顔の一ヶ所に目が行った。左目の下、目尻のすぐ下の辺りにまだ新しい傷跡が見えた。乾き始めているような、まだ生々しい傷。
 ふっと頭をよぎる、ついさっき、サルガドの指先についた赤い血の跡。
「……メレン、その傷どうした?」
 問いかければあぁ、と困ったように笑う。指先を目元に触れさせるところをみれば、傷の認識はあるようだった。細い、手袋に包まれた指先がそっとその傷を撫でる。
「……少々、引っ掻けましてね」
 どこかはっきりしない物言いをするメレンはこちらへ、と何事もないように歩き出し、リーズはそのメレンを追って足を踏み出す。符号としては合うが、いやまさか、と緩く首を振った。だが、そうでないとも言い切れない。可能性はゼロではないが、百でもない。
(……メレンが?)
 サルガドに対して、あんな暴行を加えたとでも言うのだろうか。虫も殺さないような柔和な見た目とあの酷い傷とが繋がらない。それに、と思考を巡らせる。メレンはサルガドを好いているのではなかったか。好いている人間にそんなことをするだろうか。メレンに付いて歩きながら、違うと思いながらもその考えが取れそうにもなかった。
 メレンに連れられて入った部屋の中には三人の人物。真ん中で椅子に座る導き手の少女と、二人のアコライト。確か名前はブラウとルートだったか。仰々しいとも言えそうな出迎えに面食らうリーズの横でメレンは深々と臣下の礼をする。
「お連れしました、お嬢様」
「ありがとう、メレン」
 メレンはそのままブラウの横へと足を進める。導き手の少女とアコライトが三人。こうして揃って見ると圧巻だなと意味もなく考えた。
「……前に言ってた、話ってやつか?」
 導き手が口を開く前に口を開けば、普段から半ば伏せられている赤い瞳がゆるりと緩慢に瞬いて、それからこくりと小さな頭が縦に振られた。話がある、と言われた時のことが随分と前のことのように思えてリーズはちらりと視線を導き手の背後に立つメレンに向ける。視線を真正面から受け止めたメレンはただ普段通りに微笑んだのみで。
「……リーズを、布告者に選ぼうと思うの」
「布告者……?」
 『ヘラルド』と言う聞きなれない単語に問い返す。リーズたち戦士が与えられている情報は、己の記憶がないこととこの場所に来た時の記憶を思い出せば現世へと戻ることができる、と。簡単ではあるがそんな情報だ。布告者、と言うその単語を初めて聞いた。怪訝そうな表情をすれば導き手はこくりと再度頷き、そう、と言葉にする。
「簡単に言えば、我らが聖女様の尖兵だと思っていただければ」
 ブラウが言葉にすれば見上げていた導き手がまたリーズを見つめて口を開く。
「今までと待遇は変わらないわ。ただ、優先的に探索に出てもらって、リーズの記憶を取り戻すという、それだけ」
 言葉を次いだ導き手の説明になるほどとひとつ頷く。優先的に探索に出るのも嫌なことではないし、記憶を取り戻せるならばむしろ望むところだ。
 つまり、断る理由などどこにも存在しない。
「わかった」
 いいだろうかと問われる前に頷いて是を示す。無表情を通す導き手の表情にどこかほっとしたような色が浮かんで消えた。
 記憶がないということは随分と不安定で、足元が覚束ないような印象すらある。ほんの少しであれ取り戻しつつあるとしても、まだまだ全てが戻ったわけではないのだ。
「……ひとつ聞きたい」
「なぁに?」
 ふと思い付いて言葉を口に乗せる。首を傾げた少女の肩からさらりと青い髪が流れて落ちた。
「その布告者以外は、どうなるんだ?」
「……」
 問いかけた言葉に導き手は目を瞬く。言われて初めて気がついた、まるでそんな表情になってからふと視線を背後の三人に向ける。それは答えを求めているようにも見えた。
 導き手が知らないことを知っている、と言う点でやはりアコライトと言う存在は特別なのだろうと思いながらじっと返答を待つ。
「おそらくは、同じように兵士になるのではないかな」
「そこは聖女様のお考えですので、確実とは言えませんが」
 ルートが言葉にし、メレンがそれに続く。アコライトであっても確定とは言えない話にそうか、と頷きながら考えるように視線をさ迷わせればくすり、とメレンの笑い声が聞こえた。
「どなたか、お連れしたい方でも?」
 やんわりとした声に曖昧な笑みで返しつつも、ふと頭によぎるのはあの不機嫌そうな表情をした細身の姿で。連れていきたいと言うよりは放っておけないと言うところから傍に置きたい、と言うところではあるが、そこまで言う必要はないと思いながら黙っておくことにする。
「……それじゃあ、よろしくね、リーズ」
 導き手の少女がやんわりと微笑み、告げる。その言葉に頷いて返し、踵を返そうとすれば、その横に立つ姿。視線を向ければ笑顔を向けるメレンの姿があった。
「そこまでお送りしますよ」
「そうか? わかった」
 導き手の部屋を辞して廊下に出ると僅かにほっとするような感覚になる。思っているよりアコライトたちと導き手というのは圧迫感があったらしい。歩き出すメレンの半歩後ろを歩きながらふとその後ろ姿を眺めた。
 思い出すのはサルガドの指先にこびりついた血の跡。そしてメレンの顔についた傷跡。告げられた好意と同時にいつか見たキスシーンとがその傷跡と繋がらない。
「……なぁメレン」
 立ち止まり、小さな声で問いかける。同じように足を止めたメレンが視線だけでこちらを振り返り、軽く首を傾げて続きを促すようにして見せた。
「……お前は、サルガドをどう思っている?」
 ゆっくりと口にすれば、メレンはどこか楽しげな表情を浮かべる。普段の穏やかさとも違う、どこか何か、深いものを内包したような、それ。
「どのような返答をお好みですか?」
 質問に質問で返される。卑怯だ、と思いながらも眉を寄せるだけに留めれば、メレンの口許に弧が描かれる。普段と違うその表情に、背中に何かが走るような感覚がした。見た目はそのままで変わらないはずなのに、中身だけが変わってしまったかのようにまで思えた。
「友人か、愛しているか――はたまた、憎んでいる、か」
 歌うような言葉はまるで楽しんでいるようにも感じられて、リーズは眉を寄せる。何か、違うと頭の中の本能が告げていた。普段の穏やかなメレンと違うのではなく、根本から違うと。
 姿はメレンであってもその中身がこの一瞬で変わってしまったような、そんな錯覚さえ起こさせた。
「……メレン、アンタは、」
「私ですよ、リーズ」
 さらに問いを重ねようとしたリーズの言葉をメレンの言葉が遮る。笑みと共に吐き出されたその意図を読み取れずに目を瞬く。読み取れない? 否、あまりにも直接的すぎて、受け止められなかった。その言葉が意味するところは。
 彼は、サルガドを好いていたのではなかったのか?
「それ、は」
 もし、それが事実であるならば。ぐっと手を握りしめる。思い出しつつある記憶の片隅で、大切な父親の言葉が思考を掠めた。怒りをコントロールしろ、飲まれるな、と。
 メレンの言葉を信じるならば、あの肩の傷をつけたのが、傍に誰かがいるだけで怯えるようなあの仕草にまで追い詰めたのがメレンであることになる。肉を切り裂き、抉り、傷を幾度も開かれた、あの惨い傷をまだ覚えている。あれを、メレンが?
「……彼に聞いてみればいい。誰がやったのかを」
「言うとでも?」
「私の名前を出せば、頷かざるをえませんよ」
 肩を竦め、メレンは笑う。その笑みはまた普段通りに戻っていて、先ほど見えた表情とはまた違っていた。あの一瞬。妙な狂気を孕んだような、あの表情。何が彼をそうさせたのか。リーズにはわかりそうにもなかった。
「……そうですね、ならば、一つだけ」
 メレンは人差し指を立てて、穏やかに笑う。
「あの傷が癒えるまで、彼には何もしないでおきますよ」
「っ!」
 おそらく、メレンが言っているのはあの傷のことで。何もせず、癒えることで『自分が行ったのだ』と理解させようとしている。だがそれが、何のために? 問おうと口を開こうとするも、メレンはただ小さく笑ってリーズ、と名を呼んだ。
「私は手の内を見せました。そこからどうするかは貴方次第」
 ですが、とメレンは言葉を続ける。
「最後に彼を手に入れるのは、私の方ですから」
 その言葉はどこか、宣戦布告のようにも聞こえた。



2012/08/10 Ren Katase