Suicide Syndrome


■【誓約】

『彼に聞いてみればいい』
 あの言葉から数日が過ぎて、それでもタイミングが掴めないまま時間ばかりが経過していく。メレンの言葉を信じたくないわけでも、信じているわけでもない。ただ、タイミングが掴めないのだとそう思いたかった。
「遅い」
 扉を開けた瞬間、響いたのはそんな険のある声だった。誰がいると問う必要もない。視線を向けたベッドの上、自分の部屋かのような姿で腰かけたサルガドの姿。遅いと言われてもそもそも約束はしてないとか、わざわざ律儀に待ってたのかとか色々と言いたいことはあるが怒らせるだけだろうことは簡単に予想がつくので素直に黙っておくことにする。
 傷も最初に比べれば良くなったようだった。メレンの言うとおり、だと言えば確かにその通りで。そんな考えを頭の片隅に置いたまま包帯を変えつつ、この傷が癒えたらまたただの『仲間』に戻るのだろうかと考えてから自嘲を隠すように唇の裏側を緩く噛む。
(それが、当たり前だ)
 傷ついていた姿を放っておけずにこんな関係になったのだから、その傷が癒えれば関係が終わるのもまた当たり前なのだ。……たとえ自分がどんな感情を持っていたとしても。例え、言わないと決めたことであってもだ。
『私ですよ、リーズ』
 耳の奥で声がする。数日前に言われたそれが、まるでつい昨日のことのようにまで思える。確かに、彼は笑ったのだ。自分だと言って。確かめろと言って。
 そして彼の言葉通り、サルガドの肩の傷は治りつつある。自分から暴露したその意図こそ掴めないものの……間違いでは、ないのだろう。
 結局、聞くタイミングを失って今に至る。聞いていいものか悩んでいた、と言うのも決して嘘ではない。
(――あぁ、畜生)
 悩むのは性に合わない。
「なぁ、サルガド」
 呼び掛けにすぃと視線が上がる。怪訝そうな表情を向けるその視線と目があって、一度逸らしてから改めて向けた。
「お前に暴行を加えたのは、メレンなのか?」
 口にすれば、あからさまにサルガドの眉が寄った。物言いたげに唇が開かれ、閉じる。ふいと顔が背けられ、馬鹿馬鹿しいとぼそりと呟いた。
「詮索するなと言ったはずだ」
「メレンが言ったんでな」
 確定ではない。誰をどうした、とは口にはしてない。だが、あの話の流れでそれ以外は考えられない。サルガドの肩が震える。言葉になどしなくても、その反応だけで十分だった。
 本当ならば、何故リーズにそれを晒したのか。そこには何らかの意図があるだろうに、それを悟ることはできない。
「仮にそうだったとしても、貴様には何もできん」
 吐き捨てるような声に困ったように笑い返す。ここで守ると口にしたところで、この男が信じるはずもない。ふいと顔を背けるような仕草に溜め息をついた。
「……俺に、助けを求める気はないか」
「ない」
 取り付く島もない。視線すら合わせない姿に僅かに苛立ちすら感じて悩むように眉を寄せた。そうして、ふと手を伸ばす。
 手のひらに触れる細く骨張った薄い肩の感触。ぐっと力を込めれば予想していなかったことなのか、思ったより軽い力だったはずがぐらりと傾いてとすりと身体があっけなくシーツに沈んだ。
「言え。……助けてくれって言ってみろ、サルガド」
 覆い被さるようにシーツに手をついて見下ろせば、ぱちりと瞬いた赤い瞳が大きく見開かれる。先ほどとは違う表情でリーズを見上げたまま硬直したサルガドの喉がひっ、と鳴った。
「……サルガド?」
 どうした、と。問いかけの言葉を最後まで吐き出すことは出来ないまま、震え、わなないた唇が音のない言葉を紡ぎ出す。
 ――いやだ。
 次いで聞こえたのは悲鳴のような叫び声だった。反応を疑問に思う暇もない。暴れるように振り回される腕を捕らえ、上体を起こすようにしながら無理矢理腕の中へと閉じ込める。
 叫び声の合間に混ざる嫌だと抱き締めた耳元で繰り返される声、叫び声。普段と全く違う、悲鳴じみたそれ。
「サルガド、おい、しっかりしろ!」
 暴れる身体を抱き締めて動きを封じる。耳元で声をかけるも、錯乱しているらしいサルガドには届かない。
(いっ、て)
 不意に感じた肩への痛みに眉を寄せる。それと同時におさまる声。噛みついているのだと理解するのに数秒かかって、普段の上着を脱いでいたことに失敗だったとどこか頭の隅で冷静に考えた。
 錯乱状態であるが故に噛みつくサルガドの力に容赦はない。悲鳴を堪えるためと言うよりは、報復にも近く思えるそれの痛みを堪えながら抱き締める腕を緩め、獣のような唸り声を漏らすサルガドを宥めるように背中を叩く。
「……大丈夫だ」
 本当に猫のようだ、と考えてながら大丈夫だと繰り返す。気を抜いて初めて、サルガドの振り回した腕を捕まえたときに爪がぶつかったのだろう、頬に僅かに痛みがあることに気づく。
 しばらくそうしていれば、ぎりぎりと噛みついていた力が緩んで腕の中の身体がくたりと弛緩する。肩がずきずきと痛む感覚には見ないフリをしながらゆるゆると背中を撫でた。
「サルガド?」
「……ぅ」
 げほげほと激しく咳き込む姿を抱き締めていれば、ゆるりと視線が上がった。何とか身体を起こしたサルガドの虚ろな目がリーズを見上げるようにして瞬くこと、しばし。
「……リー、ズ」
 自分を呼ぶ微かな声にどくりと心臓が高鳴るのを隠すこともできない。こんな時じゃなければ名前を覚えてくれていたと喜ぶこともできただろうに。また自分にぐったりと身を委ねたサルガドの耳に鼓動が聞こえないといい、と思いながらゆっくりとその細い身体をベッドに横たえる。
 口の端についた血はおそらく自分のもので。それを拭い、こちらを見上げる虚ろな赤い瞳を塞ぐように手のひらを乗せる。囁くような響きの声が再度リーズ、と名前を呼んだ。
「……眠れ、サルガド」
 ゆるりと腕が上がり、袖を掴む。見える唇が嫌だ、と形作る。大丈夫だとも言葉に出来ないまま、もう一度眠れ、と繰り返した。
「いや、だ……嫌だ」
 掴む手のひらに力がこもる。わななく唇が嫌だ、と拒否を繰り返して緩く首が横に振られた。
「あいつが、あいつが私を追ってくる……私を、」
 力無く繰り返される言葉はまるで譫言のようで、囁く声はか細く、言葉の最後は聞こえない。リーズが思うより遥かにサルガドの精神状態が限界に近かったのだと感じれば、緩く唇を噛んだ。
 気付かなかったと言えばそれまでだ。むしろ隠し方が上手すぎたとも言えるかもしれない。少なくとも、こんな状況になるまでこの男は隠し通してきたのだから。
「……大丈夫だ」
 気休めにしかならないのはわかっている。根本的な解決にならないのもわかっている。それでも、言葉にせずにはいられなかった。
 袖を握る手に逆の手を重ね、包むように緩く握る。大丈夫だと言葉を繰り返しながら、顔を見られたくなくて瞼の上に置いた手は離せないままで。どうしようもないと言う事態に、我ながらひどく情けない顔をしていたかもしれないと思うと滑稽だ。
「俺が、何もさせない」
 こんな言葉が、どれだけ役に立つのかわかりはしないけれど。
「……ぜ、だ」
 小さく、絞り出すような言葉。
「何故だ、……貴様に、利益など、ない」
 途切れ途切れに呟かれる言葉に少しだけ視線をそらした。見えないのは理解している上で、少しだけ口許に笑みを浮かべて見せる。
「利より、お前を大切だと思った。……だから、傍にいたい。それだけだ」
「……お前は、馬鹿だ、な」
 ゆっくりと口にすればぽつりと返る小さな言葉。精神的な疲れには勝てなかったのか安心したのか、袖を握る手の力が緩まり、そのままシーツに落ちる。瞼の上に乗せた手を離せば、いつかも見た幼い寝顔が目に入った。
 その姿を見下ろして、安堵のため息をひとつ。せめて夢の中では何事もないといいと思いながら。
「……ん?」
 手を離そうかとすれば自分の手に僅かにからめられた褐色の指先。持ち主の意識がないことで強い力もなくただからめられたそれを、離すことはできずに逆に握り返した。
「……おやすみ、サルガド」
 小さく囁いてから身を屈め、気付かれないようにそっと額に口づけを落とす。見下ろした視線の先、静かな寝息を立てる姿。
 ……本人が言葉にせずとも、メレンがやったのだ、という確証のない確信。守るためにはどうすればいい、とリーズは思考を巡らせる。
 逃げられなかったのは何か理由がある、それは多分間違いではない。いちばん手っ取り早いのはサルガドの傍から離れないことではあるが、そもそも今の関係が特殊なのだからそう簡単にもいかない。
(……それなら、)
 布告者として、地上に復活するときに連れていくのが最善だろうか、と結論付ける。いつになるかはわからない、だが探索は確実に進んでいるし、記憶も取り戻しつつある。サルガドを連れていけさえすれば、いつかは解放されるのだ。
 ただ、あのメレンが簡単に解放してくれるのか。一瞬よぎる嫌な予感に首を振る。それでも、自分から手の内を晒したメレンのこと、何かかくし球を持っていてもおかしくはなさそうだった。
「っ、ぅ……」
 不意に握り締められる掌。視線を落とせば握り込んだ掌にすがるように寄せられる額。寄せられた眉と震える肩に緩く唇を噛みながらその細い指先を握り返す。
 うっすらと目が開いて、視線が合った。寄せられていた眉が緩んで、ほっとしたような表情を浮かべる。そうしてから、ぱっと手が離された。身体を起こそうとする姿を軽く肩に触れることで制する。
「まだ横になってろ。疲れてるんだから無理するなよ」
 あの錯乱状態から時間も経っていない。精神的な疲労のひどさはさることながら、肉体的な疲労も重なっているはずなのだから本当ならばもっと眠っていたいだろうと思うのだが。
 ちらりと物言いたげに向けられた目線がふいと逸らされる。それでも身体を起こそうとする仕草に諦めてその肩をそっと支えるように触れさせた。
「……無理はしない」
 普段なら貴様にそんな心配をされるいわれはないだの、うるさいだの黙れだのと言いそうなこの男の珍しい物言いに目を瞬いた。どうやらリーズが思うよりも心を許してくれているのかもしれない。
 そんな様子に僅かな喜びも感じながらもできるだけ顔には出さないままサルガド、と名前を呼んだ。赤い瞳が怪訝そうな様子で軽く細められる。
「俺と一緒に来ないか」
「……?」
 突然の言葉に怪訝な顔をしたままのサルガドがその表情をさらに難しいものにする。ひそめられた眉が露骨に何のことだと問いかけているようにも見えた。
 ひとつひとつ説明する。布告者であること、それであれば復活することが可能なこと。そうして、それをもってすれば逃げられるかもしれないこと。
「……私も連れていくと?」
「俺は自由になりたい、お前はあいつから逃げたい。……目的は似たようなものだろう?」
 悩むようにする姿に言葉を返す。この短くもない付き合いの中、この男がリーズの言葉に従って自ら庇護されるとは明らかに考えづらい。それならばと言う考えからの提案だった。
 見つめてくる瞳が視線をそらす。こういう反応も猫のようだ、と思いながらもサルガドから視線を外すことなく見つめていれば、伏せられた瞳が僅かに瞬いた。
「……悪くない」
 微かな言葉と共に小さく頷く姿にほんの少しだけほっとする。これで拒否されたらと思ったが、そんな考えは杞憂だったようだ。
「見返りは?」
「……いらないと言ったところで納得しないんだろうなお前は」
 溜め息混じりに言えば露骨に眉が寄る。無条件で庇護されてくれるのが何よりの見返りだと思うが、そんな発言をした日には間違いなくワイヤーで首をくくられる未来が見える気がしたのは気のせいだろうか。
 少しだけ考えてから顔を覗き込むようにする。驚いたのか引こうとした身体を背中を支える手で止めて、そのまま一瞬だけ触れるように唇を重ねた。
「なら、これが見返り」
 至近距離で見つめた瞳が大きく見開かれて瞬く。に、と笑みを返せばひどく微かな声での馬鹿が、という悪態だけが響いた。



2012/09/11 Ren Katase