どこか優しげな仕草で握られた掌を見下ろす。壊れた精神がそれで治るなどと、そんな夢物語をこの男は信じているのだろうか。おそらくは思っていないことは明らかだろうが、そう思わざるを得なかった。
ゆるゆるとただ瞬きを繰り返すだけの赤い瞳。触れても反応を示さない細い肢体。意識だけがそこに存在しない、脱け殻の存在。
僅かに、その指先が動いた気がした。
(……まだ、)
意識が、自我が残っている?
少しだけ。ほんの少しだけ。
指先が逃げるように引かれたように見えた。
「サルガド」
リーズが小さく、囁くように名を呟いた。次いで、唇だけで何かを囁くがその言葉は聞こえなかった。掌の中にあるその指先の動きがわかったのか、それともただ言葉にしたのか。メレンにはわかりそうにもない。
握られた手を離し、リーズは小さく吐息を落とした。ゆっくりとした動作で立ち上がり、すっと青い瞳がメレンを見る。どこか表情の読み取れない、深い色の瞳と視線を絡ませる。
「……わかったでしょう。もう終わったのですよ。すべて」
意識と自我を手放したサルガドはこの世界から出ることはできない。連れていくことは叶わない。物言いたげに開かれたリーズの唇が閉ざされ、そのまま引き結ばれる。緩く唇を噛んだようにも見えた。
「……本当に、これでよかったのか」
確認するかのように投げ掛けられる問いに何を今更、とメレンは微笑む。肯定の意図が伝わったのだろう、リーズが目を逸らして俯いた。唇が小さく言葉を紡ぐがメレンの耳には届かない。
呪詛か嘆きかそれとも別の何かか。少なくともメレンにはもはやどうでもいい話だった。
「貴方には、することがあるはずですよ、リーズ」
布告者として、地上へと侵攻する役割があるのだろうと言外に促せばちらりと視線がこちらを見た。まだ物言いたげな様子も見て取れるが、これ以上の問答は意味をなさない。それはおそらくリーズも理解していることだろう。
既に結果は出ているのだ。サルガドの精神崩壊と言う結果が。そしてそれが、覆すことのできないものだと言うことも。
ふるりと首を振ったリーズがメレンに背を向けた。その腕にはまだちらちらと火の粉が見え隠れしていて、彼の怒りを現しているようにも見えた。
「貴方には感謝していますよ、リーズ」
その背中にそっと声をかけた。ぴたり、リーズの足が止まる、が、振り返りはしない。それ以上は見たくない。そんな風にも見えた。
「貴方がいなければ、サルガドは堕ちてこなかった」
自分の腕の中に。
ゆっくりとソファを周り、サルガドの横に立つ。ゆるりと指先で頬を撫でてその髪をすけばさらりと揺れた。生きている人形のような、その姿。
「……っ!」
轟、と音が響いた。至近距離で放たれる炎をカードの一振りで防いで、その炎の向こうに焼けつくような光を見せるリーズの瞳を垣間見る。
「……殺しますか、私を。貴方の大切なものを奪ったものとして」
冷静なメレンの前で、右腕に火の粉を散らせたリーズがぎりぎりと歯噛みしているのがわかる。メレンからは動かない。そもそも、動く必要がない。
「俺は、」
唸るように圧し殺すように吐き出された言葉はそこで途切れる。リーズの力があれば、今ここでメレンを害した上でサルガドを奪い、逃げると言うことも不可能ではない。むしろ、その可能性を危惧していなかったと言ったら嘘だ。だからこそ、不意打ちにも似たあの一撃を止められた。
――だが、リーズはこれ以上をしてこない。
(……わかっているのだろう)
無意味であることを。無駄であることを。――何もならないことを。
メレンを害したところでサルガドが元に戻るわけでもない。元に戻らないサルガドは侵攻の邪魔以外の何者でもなく、あまつさえこうなった経緯を話せとなれば非常に好ましくない事態のはずなのだから。
できなくはない。本当ならば。ただそれをしないのは。――善くも悪くも、誠実であると言う話になる。この男が。
落ちる沈黙。そうして、微かに聞こえたのは導き手の少女が呼ばわる声だ。気づいたらしいリーズがふと顔をあげドアを振り返る。一度メレンたちを見ようとし、それでも見れないままに、その手がドアノブにかかった。
「さようなら、リーズ。もうお逢いすることもないでしょう」
メレンの声を最後に、開かれた扉がぱたんと扉が閉まって姿が消える。あの男は泣くのだろうか。悔やむのだろうか。
(――私のことを、)
憎むのだろうか。
今更どうでもいいことだ、とメレンは思考からその考えを緩く頭を振って追い出す。動かないサルガドを抱き上げ、しっかりと腕の中に抱き締める。
欲していた唯一無二の存在。
半永久的に損なわれることのない『それ』に、メレンはただ、どこか幸せそうな表情で微笑んだ。
2012/10/28 Ren Katase