急がなきゃ、ってただ、思った。
頑張らなきゃ、って。
早く、早く。早く上手くなって、もっともっとマスターに褒めてもらいたい。
上手くなりたい。もっともっと。早く、早く。
「……あ」
リンとレンの歌声がする。
パソコンの中、奏でられる歌声に耳を傾ける。
とても綺麗な声で歌う、小さな双子の弟妹たち。
俺がここにくる1年ぐらい前に購入された、って聞いた。
確か、順番はミクで、リンとレンで、俺。
……そういえば、姉さんは。
考えるけれど『どうしてか』なんて俺にわかるはずがなくて。
思考をそこで諦めて、聞こえるリンとレンの声に耳を傾ける。
俺も、頑張らなきゃ。頑張って、うまくならなきゃ。
ぎゅ、と手を握り締めて、立ち上がる。
パソコンの中にいる分には、俺たちはみんな部屋(フォルダ)を与えられている。
ネットに出るのも自由だよ、とマスターは笑っていたけれど、何となくそんな気にはなれなくて。
だから、俺はずっとここにいる。
でも別に、それが嫌にはならない。だって、ミクやリン、レンの声が聞こえるから。
みんなの声を聞くのは楽しいし、勉強にもなる。
だから、こそ。
俺の歌は、まだまだだって思うんだ。
マスターは、俺のペースで行けばいいよ、って言ってくれるけれど。
でも、早く上手くなって、もっとマスターに褒めてもらいたいから。
「……♪」
口を開いて、声を上げる。
自分から外への回線は閉じて、外から自分への回線は開いたまま。
リンとレンが歌う歌を、俺の声でなぞる。
声の質とか、全然違うけれど……何となく、練習になるような気がして。
マスター、マスター。
俺、頑張ります。頑張って歌います。
マスターのために。マスターだけのために。
+++
『……カイト?』
「はい、マスター」
俺の調声の日。俺を歌わせてくれたマスターの表情が少し、曇った。
そうして、静かな声が俺を呼んで。
口元に指を触れさせて、マスターは悩むような表情。
『少し、システムを調べていいかな』
「……えっ」
『声の伸びがおかしい……人間で言うなら、喉が嗄れている感じ、かな』
じ、と。
マスターの眼鏡の奥の目が、俺を見つめてくる。
調べる間もなく、俺は自分のプログラムの修正を行っていた。ほとんど無意識というか……。
自己修復機能、みたいなものが存在しているから。
『カイト。何かあったのかい』
「いえ、あの……」
口を開こうとした、瞬間。
「はーい、わたし知ってるよ!」
どが、という鈍い音が聞こえたような気がした。
それと同時に背中に乗る重みと、視界の端で揺れる緑の髪。――ミクだ。
マスターがミク、と呼んで。俺の背に乗ったまま、ミクは動こうとしない。
「ミク、どけて……」
「あ、うん。ごめんねお兄ちゃん」
ミクがどけて、狭いプロジェクターの中で二人で立つ。
頭ひとつ分ほど低いミクは俺を見上げて、緑の瞳がとてもきれいに細められた。
『教えてくれるかな、ミク?』
「ミクっ」
マスターの問いかけと、思わず声に出した俺の声。
ミクは俺とマスターを見比べてから、俺にゴメンね、と手を合わせた。
……うん、わかっていたんだけど。
俺たちボーカロイドにとってマスターの言葉こそ絶対だ。
ミクでなくても、今の状況ならマスターを選ぶ。それが当然だから。
「お兄ちゃん、昨日自主練習してたの。外には回線切ってたけど、中には聞こえたから」
『自主練習……カイト、本当かい?』
マスターの視線がこちらを向いた。目線を合わせられなくて、足元に視線を落としたまま頷く。
なるほど、とマスターが呟いた。少しだけ、降りる沈黙。
顔が、あげられない。マスターに、怒られるんだろうか。
『ありがとう、ミク。少し、カイトと話をさせておくれ』
「はぁい。……大丈夫だよ、お兄ちゃん」
俺にかけられたミクの声は小さいもので。ふわりと身を翻したミクが緑色の軌跡を瞼の裏に残して姿を消す。
また、降りる沈黙。
怒られる、のかな。ボーカロイドなのに、まともに歌えないから。
ぎゅう、ときつく掌を握り締めた。唇を噛んで。
『……カイト。顔をあげなさい』
静かな、でもはっきりしたマスターの声。
でも、顔をあげられなくて。そのままでいればもう一度カイト、とマスターが俺を呼んだ。
そろそろと顔をあげる。絡んだ視線。マスターの表情は、どこか穏やかで。
そうして、頬杖を付いたまま小さく溜息をついた。
『……そんな顔をされると、怒るに怒れないなぁ』
「マスター……」
『怒らないよ。そんな顔をしないでおくれ』
やわらかく、笑う。
だから、どうしても、泣きそうになって。
マスターがやさしいから。
「ごめん、なさい。マスター」
『カイト』
「ごめんなさい、俺、余計なこと、」
『カイト。……ひとつだけ、聞かせてくれるかい』
俺の言葉を遮って、マスターは俺に聞いてくる。
言葉を止めて、マスターを見上げて。はい、と頷けば、よろしいとマスターは笑った。
『どうして、自主練習なんてしようと思ったんだい?』
「……あの、俺。上手く、なりたくて」
ゆっくり、言葉を紡ぐ。言葉を選んで、できるだけ、わかりやすいように。
リンとレンの歌声を聴いていて、俺も頑張らなきゃと思ったこと。
褒めてもらいたくて、上手くなりたくて練習してたこと。
マスターは俺の言葉に口を挟むわけじゃなく、ただじっと、俺の言葉を聞いていた。
『……本当に、君は真っ直ぐだなぁ』
全部を言い終えた俺に、マスターはただ、そう言った。
どこか、照れたような、困ったような。そんな、複雑な表情で笑いながら。
そうして、小さな声でカイト、と俺を呼んで。
『ありがとう』
どうして俺にお礼を言うのかがわからなくて、困惑する俺に、マスターはもう一度ありがとう、と言って。
手を伸ばしてプロジェクターの上に立つホログラフィだと気づいて手を引いた。
そうして、触れないのはつらいなぁ、なんて言って。
「どうし、て、俺にお礼なんて、言うんですか?」
『君が喉が嗄れるまで歌ったのは、僕の為、だからだよ』
……よく、わからない。
俺はボーカロイドで。マスターのために歌うのは当然で。
でも喉を嗄らしてしまったのは俺の責任で。だから、歌えないならそれは怒られて当然で。
なのにマスターは怒らない。それどころか、ありがとう、って。
ぐるぐるする。処理速度が、追いついていっていない感じ。
『僕のために頑張ってくれて、ありがとう』
すとん、と、まるで胸にその言葉が落ちてきて。
ほんの少しだけど、マスターが言う言葉は、わかったような気がした。
どういう意味? と聞かれても何となくでしかわからなくて……ええと、感覚、とかいう感じ。
ただ、本当に。
マスターはやさしくて、素敵な人なんだ、って、思ったんだ。
……その後、あんまり無理しちゃダメだと少し、怒られたけど。
マスターは声を荒げることなく、俺を窘めるみたくそう言っただけだった。
2008/04/15 Ren Katase