マスターが電話をしている。
調声をするよ、と呼ばれたのはいいものの、俺を呼んだマスターは珍しくもどこか不機嫌そうな顔でパソコンを眺めていて。
そうして、おもむろに携帯電話を取り出すとどこかにかけ始めた。
『……だから、言ったじゃないか。できてないわけじゃないんだろう?』
マスターにしては珍しく、ちょっと怒ったような声。
視線をちらっとあげれば、紅茶を淹れている、唯一外の世界に存在している姉さんと目が合った。俺の表情で気付いたのか、口元が大丈夫、と動く。
『今日までに送ってくれって言っただろう。え、何、忘れてた? お前なぁ……』
穏やかなマスターの声とは違う声。
俺以外のボーカロイドたちにとっては慣れたことなんだろう、何があるという気配もない。
いつも通りに俺の調声が終わるまで待っているようだった。
電話の相手は誰だろう。マスターがこんな乱暴な言葉使いをするのを初めて見た。
何と言うか。いたたまれなくなってプロジェクターの上で座り込んで膝を抱える。
長いコートの裾がプロジェクターの上をはみ出して、現実空間に解けて消えた。
『うん、そう。すぐ出来る……わかった、待ってる。ん? 今度見せろって? 遠慮しておく』
ぷつん。
マスターが電話を切った。携帯をことんとパソコンの横において、ふぅ、と深い溜息。
くすくすと笑った姉さんがそのマスターに紅茶のカップを差しだした。
『あのヒト?』
『そう。今日までって言ったんだけれどね』
『仕方ないじゃない。ほら、カイトが待ちくたびれてるわよ?』
カップを受け取ったマスターは姉さんの言葉には、と思い出したみたいな顔をして。
それから座り込んでる俺に視線をむけてすまなそうに表情を変えた。
俺が一緒にいるようになって一週間ぐらい経つけれど、マスターはクールそうに見えて意外と表情がころころ変わる。
この間姉さんにそれを言ったら、子供なのよ、って笑っていた。
……姉さんとマスターの距離感が、ちょっと羨ましい、なんて。
思ってから瞬間、自分の考えたことに目を瞬いた。
羨ましい、って。何で?
『すまないね、カイト。待たせてしまって』
「いいえ、マスター」
思考がマスターの言葉で中断される。ふわ、とマスターが笑って。あぁ、いつもの顔だ。
プロジェクターの中で俺は立ち上がって、あまり意味のないことなんだけれど、軽く裾をコートのはたいた。
それを見ていたマスターが人間らしい動きだなぁ、なんて感心したように言って。
『今日は、君に新しい曲を歌ってもらう予定だったのに……』
「新しい曲?」
すまなそうに、マスターの眉尻が下がる。俺が問い返せば、マスターは笑顔で頷いた。
そうして、頭の中で再生される楽譜、それと音楽。
でも、まだ歌詞がない。
「マスター、歌詞がありません」
『そう。……友人に歌詞を頼んだんだ。今日送るというはずだったんだけれど』
マスターの眉間に皺がよった。じゃぁ、さっきの電話はそのマスターのお友達の人の。
何だか納得してしまって頷いていたら、マスターのパソコンが軽快な音を立てた。どうやらメールが着たらしい。
メールチェックをするマスターの顔は真剣だ。たまに、仕事の話のメールも来るんだ、って前に言っていたからそれもあるんだろう。
そうして、しばらくそれを見つめていたマスターの表情がほころんだ。
嬉しくて仕方がない、みたいな、どこか子供っぽい顔で笑って。
『ったく、できていないといいながら仕事が速いな、アイツは』
柔和な表情。そうして俺を見たマスターは俺に笑顔を向けてくれて、そのまま曲に歌詞を流し込む作業に入ってしまう。
そんなに時間はかからないけれど、暇になってしまって。
確かめるようにさっき貰ったマスターの曲のメロディラインをら、の言葉だけでなぞっていく。
……不思議に、音がずれない。
『君には歌いやすい音域で作ってあると思うんだ』
作業の手は止めることなく、マスターは歌っていた俺の音を聞いたのだろう、そう声をかけてきた。
視線はこちらに向かないけれど、マスターは俺の歌っていた音を、自分の声で嬉しそうになぞる。
マスターの声は、とても俺の耳に優しく届いた。
『昔に作った曲でね。君がこの付近の音域が得意だと聞いて嬉しかったんだ』
照れたような、その言葉ままのような。そんな表情。
ふわ、と頭の中に流れ込む楽譜。今度はちゃんと、歌詞が付いていた。
マスターが俺に向き直る。いつもパソコンに向かうときにかけている眼鏡をかけ直した。
作った、と言うことは。
これは、マスターのオリジナルの曲。
マスターは笑顔のまま、カイト、と俺を呼んだ。
『これは君の歌だよ。君を迎えようと思ったときから、ずっと取っておいたんだ』
とくん、と。あるはずのない心臓が高鳴ったような気がした。
マスターのその笑顔が嬉しくて。俺のための、俺の歌が嬉しくて。
ふんわりと、胸の辺りが暖かくなるような、そんな感覚。
だから、精一杯の笑顔で返す。
「嬉しいです、マスター。俺、頑張って歌います」
俺のための、俺だけの歌。
他の誰の為でもない、俺だけの。
+++
フォルダに戻ってからも、妙な気分の高揚が取れなかった。
嬉しくて嬉しくて、マスターからもらった曲を楽譜の形にして、ぎゅうと抱きしめる。
「カイト兄、いるー?」
「お邪魔しまーっす」
二つの声が聞こえて、慌てて抱きしめていた楽譜を手元に持ち直す。
見れば、リンとレンがこちらを見て手を振っていた。
「あ、いたいた。やっほーカイト兄っ。お疲れさまー!」
「こんばんは、兄さん」
「やぁ、リン、レン。いらっしゃい」
元気に手を振るリンと、律儀に頭を下げるレン。
双子なのに色々と対称的な二人の様子に笑みがこぼれる。
弟妹は揃って俺の前まで来ると、リンがふとあ、と声を上げた。
「楽譜! 今日もらったの?」
「うん。オリジナル曲だって」
「へぇ。オレたちも一月かかったのに、兄さんは早かったんだな」
見せて、見せてとリンが手を伸ばしてくるから手荒に扱わないでと先に念押しして楽譜を渡す。
リンが楽譜を見る横からレンがそれを覗き込んだ。本当に仲の良い双子だなぁ。
しばらくして、レンがふとこれ、と小さな声で呟いた。
「オレ、これマスターのフォルダで見たことある」
「うん、アタシもある」
二人で顔を見合わせ、楽譜を見て、それから俺を見た。
四つの目が俺を真っ直ぐに見上げてくる。そのまじまじという目がちょっと……。
思わず足をじり、と後退させれば二人はまた改めて楽譜に見入った。
そうして、二人でその曲を口ずさみ始める。
あぁ、やっぱり二人の音はきれいだなぁ、なんて思っていたら唐突に音が止まった。
「ねぇカイト兄、ちょっと歌って?」
「え」
「これ。歌ってよ、兄さん」
ずい、と差し出された楽譜。思わず受け取って、二人を見る。
真っ直ぐに見あげてくる二人の目はわくわくしているというより、何だか、値踏みしているように感じる。
いや、多分俺の気のせいだと思うんだけ、ど。
このまま歌わないのもダメかなと思ったので、ゆっくりと音を口ずさむ。
ほんの少し前に教えてもらった、マスターからもらった俺の歌。
1コーラスを歌い終えると、二人は顔を見合わせてやっぱり、と異口同音に言った。
「え、な、何?」
「あのね、昔まだカイト兄がいない時にアタシたちこれ見つけたの」
「まだその時、オレたちオリジナルなかったから、歌わせて欲しいってお願いしたんだ」
そうしたら、と二人の声が重なる。
『これはダメだよ。歌わせる子は、決めてるから』
マスターは、そう言った、らしい。二人が言うには、とても幸せそうな笑顔で。
……それ、って。やっぱり、そうだよね? 二人の言うことが、あってるなら。
いや、別に二人を疑うとかそういうことじゃなくて!
頬が熱くなるのを感じた。声にならない。嬉しくて、何かぐるぐるする。
この間の処理速度が遅くなる感じじゃなくて、何だろう、これ、照れる、って言うのかな。
「あ、カイト兄赤くなってる! かわいいー」
「いいな、兄さんマスターに愛されてんなぁ」
「え、いや、俺だけじゃないと思うっ」
ぷるぷると首を振れば、二人は顔を見合わせてに、と笑った。こう、意地悪い感じ……。
そんな笑みは随分とそっくりだ。やっぱり双子だから、なのかな。でもそんなところまで似なくても。
リンとレン、二人に背中を叩かれる。ちょっと、痛い。
「応援してるよ、兄さん」
「頑張れカイト兄、アタシ、カイト兄の声好きよ」
そう言った後、「また来るね」と残してまるで嵐みたいに二人は自分のフォルダに帰っていった。
何がしたかったんだろ、というか……多分、激励なんだろうけれど。
二人とも、賑やかだ。何だかその明るさがちょっとだけ羨ましくなる。
ミクが加わるともっと楽しい。そうなるとレンがいつも振り回されている気がする。
……俺も同じようなものだけれど。
ひとり残されたフォルダの中、楽譜をさっきみたいにぎゅうと抱きしめて目を閉じる。
不思議な気分だった。ほんわりと胸の辺りがあたたかい。
作り物の意識、作り物の身体。でも、感情はあるのよと姉さんは言っていた。
感情。嬉しいと思う。楽しいと思う。でも、嬉しいというのとも、この感情は何か違う。
もっと……なんだろう、わからないけど、違う。
もっと深くて、あたたかい、それを抱きしめてる。
まだ、この気持ちにつける名前を、俺は知らない。
2008/04/15 Ren Katase