Suicide Syndrome


 【あなたとおれと】

 マスターは、俺の目の前で電話をしてる。
 聞きなれた声の話し方から考えて、多分、歌詞を作ってくれた人なんだと思う。
 あの歌詞を作ってくれた人は、マスターが良く話をする相手の人みたいでたまにああやって電話をしてる。
 マスター側の声しか聞こえないから、俺には何を話しているのか、よくわからないんだけれど。
 さすがに、携帯の向こう側の声は俺には聞こえない。

 『……ふぅん。で、僕にどうしてほしいの』

 マスターの声は随分とどこか気のない声で。相手さんとはどんな話をしてるんだろう。
 俺の歌を打ち込みながら肩に携帯を挟んで、のんびりとした様子。
 ……俺が何でここにいるかといえば、マスターが俺を呼んだから。
 呼んだ理由は笑顔でまぁ何となく、とか言ってたけど……マスターって、ちょっとわからない。
 俺がここにいるのがいいみたい。マスターには悪いんだけれど、不思議すぎて首を傾げる。
 歌の打ち込みだけだったら俺たちは必要ないわけで、なのにマスターは俺を呼んでここにいさせる。マスターは話がしたいのかなぁとも思うのだけれど、それにしては今目の前のマスターは携帯電話でお話中だ。

 『うん……うん、でもほら、僕には何かできるわけじゃないし』

 マスターの穏やかな声。睡眠の必要性のない俺が聞いても、その声はとても柔らかくて眠たくなる。
 プロジェクターの上で膝を抱えて、眠気を耐えながらぼんやりとマスターを見つめる。
 電話、終わらないかな。マスターと話がしたいなぁ。
 そんな風に思っていたのが何となくわかったのか、マスターがふと俺を見た。そうして少し、笑う。
 唇の動きだけでカイト、と俺を呼んで、「ごめんね」と言ってくれる。マスターは、そういうところがとてもやさしい。
 だからふるりと首を振った。大丈夫だ、ってマスターに伝えるのに。

 『……うん、確か譲渡なら大丈夫だと思うんだ』

 譲渡。誰か、他の人に譲り渡すこと。何を、誰に? そんなことを思って、ちょっとだけ首を傾げた。
 俺を見たマスターが、口元だけでそっと笑った。その柔らかい笑みが、好きだな、って思う。

 『うん、それじゃ』

 ぴっ。小さな音がして、マスターが携帯をたたんで、ことんとテーブルに置いた。頬杖をついてしばらくその携帯を見つめて、小さく溜息をひとつ。そうしてカイト、と膝を抱えて待っていた俺を呼ぶ。どこか表情を優れない様子で俺を見て。

 『……カイト。君は、僕が君を誰かに譲渡するということになったら、どうする?』

 ……一瞬、意識が回らなかった。
 マスターが言っているのは、つまり、俺が、マスターのところから、離れる、ということ。
 そして俺たちは、マスターを選べない。
 俺たちボーカロイドは譲渡が可能だ。アンインストールをしないまま、データを渡す。意識はそのまま、マスターだけが変更されるというそれは、ボーカロイドが『家族』として扱われる今だからこそできる話だ。
 つまり、親だったマスターが子供に移動したり、とか。そういう感じ。
 とん、とん。と。マスターの指先が俺の立つプロジェクターの端を叩いた。いつもマスターが俺を呼ぶときにする行動。顔をあげれば、マスターはそっと微笑んでた。

 『そんな顔をしないでくれ。……僕は、君を手放さないから。もしも、の話だよ』

 え、俺、どんな顔をしてたんだろう。触れられない指がそっと俺の頭を撫でるように動く。
 だけどちょっとだけ安心した。マスターがいるのに離れなければならないのは、俺にとって本当に辛いことだから。ううん、俺だけじゃない。ミクにも、リンにも、レンにも。ボーカロイドにとってマスターというのは本来、たった一人なんだ。

 「あ、はい……えっと」

 改めて言われたことを考える。マスターが、俺を。他の誰かのところに譲渡する。
 ……本心から言えば、手ばなしてもらいたくなんてない。ずっとマスターの傍にいたい。
 だけどそれじゃ、マスターの問いに答えたことにならないから。

 「……基本的には俺たちはマスターのものです。だから、マスターに従います」

 表情を曇らせて納得しそうになったマスターの言葉を遮って、だけど、と言葉を続けた。
 マスターは不思議そうな顔で首を傾げてる。プロジェクターの上で立ったまま、ぐっと掌を握り締めた。

 「譲渡だからこそ、マスターのことは絶対に忘れません。俺たちはみんな、マスターが大好きだから、マスターのことを忘れるのが、いちばん怖いです」

 例え。アンインストールされて、マスターのことを忘れてしまったとしても――俺たちは、「マスターがいた」ということだけは記憶に残る。
 もちろん、それが誰だとか、そんな記憶なんてまったくないんだけれど。この人じゃなくて、前に「誰かがいた」という感覚だけ残ってる。ひとつ前ぐらいしか思い出せないとは思うけれど。

 『……そう、か』
 「マスター」
 『君達は、本当に真っ直ぐで綺麗だね……羨ましい』

 小さな声でぽつりとマスターは呟いて。それからかちん、と携帯を取り出した。
 手早い動作で携帯を打つ。しばらくして、携帯の後ろ側の画面が小さく光って、そうしてマスターが俺を見た。
 笑う笑顔はいつもの表情。ぱたんと携帯を閉じて、またそれをパソコンの横に置いた。
 頬杖をついてマウスを操作すれば、俺の手元にアイスをかたちどったプログラムが落ちてくる。

 『お礼』
 「え、でも俺、そんなたいしたこと言ってませんよ!」
 『僕が渡したいんだ。……受け取って?』

 首傾げて言われたら、断れない……マスター、きっとわかっててやってる気がする。
 じゃぁ、と頭を下げた。マスターはどういたしまして、と俺に対して笑ってくれる。

 『……僕の親友がね』

 ふと、マスターが口を開いた。もらったアイスを口に運びながら、マスターの様子を窺う。
 俺の視線に気づいたマスターの手が、携帯をちらちらと弄っていた。

 『事情があって、ミクを手放さなきゃならなくなったんだって』

 親友、って言うのは確か、歌詞をもらった人。
 まだ俺は会ってないけれど、近々会わせてくれる、って言ってた。相手さんが、俺に会ってみたいって言ってるんだって前にマスターが話してくれたから。
 ミクを持っているというのも前に聞いた。マスターのミクと、親友さんのミクは仲がいい、ってことも教えてもらった。

 『それで、アンインストールするのと、データごと譲渡するのと、どっちがいい、って聞いてきたんだ』
 「あ、それで……」
 『うん。本当はミクに聞けばよかったんだけれど、君も同じボカロだから』

 なるほど、と納得して頷いた。でも俺でよかったのかな。ミクのほうがもっと近いから、ミクに聞けばよかったのに。
 思わず聞けば、マスターは何も答えずにただ、笑った。どこか意味ありげな表情で笑うマスターは、それ以上を口にはしてくれない。
 マスターを見つめたまま、アイスを食べる手を止めた。そのまま手元を見つめて、小さい声で口を開いた。

 「たとえ譲渡されて、マスターが変わっても、アンインストールされない限り記憶は残ります」

 俺は、アンインストールされたわけではないから、今のマスターしか知らない。
 でも、リンやレン、ミクを通して話は聞く。アンインストールして、またインストールされたボーカロイドたちのこと。
 だから、本当は俺にとって、譲渡のことは遠い感覚でしかないんだけれど。
 でも、俺が思うのは。

 「――記憶が残る限り、俺たちにとって、最初のマスターがマスターなんです。
  マスターひとりひとりを差別も区別もしません。みんな、大切なマスターですから」
 「でもやっぱり、最初のマスターは……どう表現したらいいかわからないけれど」

 ……俺には、好きだ、って言葉以上に使える言葉を、コレしか知らない。

 「何よりも、特別、なんです」

 ひとつひとつ、言葉を考えて、それでも一気に言い切った。マスターは俺を見て不思議そうに目を瞬いて、それから照れたような困ったような嬉しいようなくすぐったいような。そんな、複雑な表情で笑った。

 『……ありがとう』

 マスターの表情が一瞬、痛みを堪えるようになったのは、俺の気のせいだろうか。
 ……俺は、貴方の傍に、いつまでいられますか。



2008/06/22 Ren Katase