Suicide Syndrome


 【わたしとあなたと。】

 「……めぇは、どんな気分だった?」

 ぽつりと、不意に彼が呟いた。
 エディタを落としたパソコンの前で、頬杖をついたままこちらを見ない。
 私のことを「めぇ」と呼ぶのは、私がこの家に来たときからの彼の癖。どうにか直したくて何とか「メイコって呼びなさい」って言ってみたこともあるけれど、結局無駄に終わって今もそのままだ。

 「……譲渡、されたとき?」

 弟であるKAITOと彼の会話は聞こえていたし、その前に彼が携帯電話で話していた内容も何となくではあったけれど、カイトとの会話でわかる。――あくまで、憶測だけれど。
 き、と椅子をきしませて、彼がキッチンでたたずむ私を振り返る。色素の薄い瞳が私を見て、どこか複雑な表情を浮かべた。

 「……私の場合は、譲渡されるか、消えるかの二択だったから」

 アンドロイドボディの記憶回路は優秀で。人間のように記憶を曖昧にしてはくれない。
 『たとえ譲渡されて、マスターが変わっても、アンインストールされない限り記憶は残ります』
 さっきまで、小さなプロジェクターの上に佇んでいた私の弟。
 『――記憶が残る限り、俺たちにとって、最初のマスターがマスターなんです』
 『マスターひとりひとりを差別も区別もしません。みんな、大切なマスターですから』
 『でもやっぱり、最初のマスターは……どう表現したらいいかわからないけれど』
 『何よりも、特別、なんです』
 まだ、世間慣れしていないから……悪く言えば世の中をさほど知らないからこそ言える言葉。これが人間と共に暮らす時間が長いミクや私なら――カイトのように、事実だけを述べることができたのだろうか。同じマスターでも、最初の人が特別だ、って、言えたんだろうか。
 最初の人は、特別な人。私をはじめとして、『ボーカロイド』を選んでくれた、いちばん最初に私たちに手を差し伸べてくれた、大切な人。
 譲渡されてしまえば、その人とは別れ別れになる。
 それは、事情があったり――死別で、あったりして。二度と会えなくなる確率は低いことが多いんだろう。……少なくとも私の周囲では、譲渡された後に二度と会えなくなった、というのは、聞かない。

 「めぇは、消えたかった?」
 「……私はボーカロイドだもの。……選択権なんて、ないのよ?」

 明るく振舞えば、彼は少しだけ、痛みをこらえるような表情をして見せた。
 ボーカロイドと、人間は違う。人間と同じように、同じ場所になんて、行けるはずがない。
 私が、行く先を選べるはずもない。
 行けるものならと、思ってはいけない――私は、ボーカロイド。人ではないのだから。
 ひととおなじになれるはずがないのだと。そうおもうことこそが、きっと、まちがっているのだけれど。

 「貴方のせいじゃないわ。……私は、人間じゃないの」
 「うん。わかってるよ、めぇ」

 彼は、複雑な表情で笑う。彼と話す時間が長い分だけ、その表情がどういう理由なのかがわかる。
 曖昧な笑み。頬杖をついて、彼は私から目を逸らした。テーブルの紅茶に視線を落として。

 ――メイコ。私たちの可愛い娘。

 耳の奥で変わらずに再生できる、大切な人の声。
 特別、と呼んだカイトの言葉を何となく、理解できる。
 今の彼のことは、きちんとマスターだと思っている。私は譲渡されたのだから、マスターが彼と思うのは当たり前。だけど、まだ記憶を司るメモリの中にはあのヒトの声が残っていて、あのヒトへの感情は未だに消えることがない。
 比べられないけれど、『最初のマスター』を大切という言葉以上に思う気持ちが、ある。
 多分、カイトはそれを『特別』と称したんだろう。
 普段口下手というか、まだインストールされて間もないせいかカイトは言葉足らずなところがある。ボキャブラリーはあっても、それをどう扱うのか――多分、まだそれがわかっていない。そんなカイトが言う『特別』という言葉は、きっととても重みのあるものなんだろう。姉という贔屓目を覗いても、何となくそう、素直に思えた。

 「だけど、めぇ」

 ぽつり、と。
 彼が静かに口を開いた。落としたパソコンのディスプレイにまた視線を向けたまま、彼はかけていた眼鏡を外して手元に下ろす。テーブルと触れあった眼鏡がかちり、と小さな音を立てた。
 その横顔を見つめる。私が出会った頃よりもずっと大人になった横顔は、それでもまだ私が覚えている少年と青年の中間の幼さの面影を残したままで。その手が緩く組み合わされて、そのまま顔を隠すように額に触れさせる。わずかばかり耳の前が長めの茶色い髪が私の視界から彼の顔を隠した。

 「……選択権があったら、めぇは」
 「もしも、は、ないわよ」

 あえて、言葉を遮った。
 考えたくなかった。聞きたくなかった。私には、選択権がないと思っておきたいの。……だって、もう。
 もう、それは。……私には、おわってしまった、はなし。

 「……ごめん、めぇ」

 呟いた彼が立ち上がる。口元には複雑な笑み。彼が笑ってばかりになったのは、いつからだったろうなんて。ふとそんなことを考えて。そのまま彼がリビングから出て、自室へと姿を消していく。落とされたパソコンに近づいた私は指先ですぃとディスプレイをなぞる。目を、閉じた。
 どんなに過去を思っても、「もしも」は存在していなくて。選択肢が存在する未来は、考えたくなかった。もしも、を考えてしまえば。私は。
 ふるりと緩く首を振れば、さらさらと髪が揺れた。

 「ねぇ、カイト」

 ディスプレイの向こうにいる、弟に声をかける。聞こえないのをわかっていて。ただ、言葉にした。
 私は、もうすべてが終わっていて。未来は、ないも同然で。
 ないも同然、は多分違う。私に与えられた未来と、私が望んだ未来が違うだけ。それを本来は比べられるはずもなく、未来があることを喜ばねばならないはずなのだけれど。私にとってこの未来は――。
 緩く、首をひとつ振った。思い出しそうな記憶のメモリをまた封じ込めて、目を閉じる。ミクやリン、レンもそうだけれど……まだ世の中に、外に慣れていないが故に純粋な私の弟。

 「……アンタは、私みたいにならないでね」




2008/10/05 Ren Katase