Suicide Syndrome


 【まだ見ぬそのココロ】

 あの日、ユウさんと、ユウさんのカイトと出会ってから、ざわざわする感情が止められない。
 ……理由なんてわからない。ただ、胸の奥がぐるぐるしていて、止められなくて。だからかもしれない、最近ちょっとマスターとの歌の調整にも身が入らなくて、困ってる。そんなこと、あってはいけないのに。

 『カイト』
 「……はい、マスター」

 俺を呼ぶマスターの声は、少しだけ固かった。ヘッドホンを外して、溜息をひとつ。
 いつもはやさしい表情を浮かべている顔は、ほんの少し強張っていて。いつになく難しい表情をしていた。

 『最近、調子悪いね。……何か、あった?』
 「あ、いえ、……何も

 ふるりと首を横に振る。マスターは珍しくも眉間に皺を寄せたまま、俺を見つめてそのまま外したヘッドホンをパソコンの横に置いて、頬杖をついた。
 ほんの少しだけ困ったように笑ってから、マスターは俺のエディターを閉じた。マウスのカーソルで俺の頭を少しだけ撫でる。

 『ちょっと、休もうか。――しばらく、ゆっくりするといい』
 「……はい、マスター」

 ぺこりと頭を下げて、そのまま外とのアクセスを遮断する。ぷつりと、ノートパソコンの電源が切れる音がした。振り返っても、そこに残るのは漆黒の闇だけだ。普段は、マスターはパソコンの電源を消さない。俺たちが自由にできるようにしてくれる。……だけど、それが止められた。今までになかったことで、驚いた。
 でも、俺たちにそれをどういう風にも言えるはずがなくて、俺はそのまま自分のフォルダへと戻ることにした。


 +++


 ざわざわ、ざわざわ。
 身体の奥からざわめくような感覚がする。
 むずがゆいような、苦しいような、ぎゅうっと胸が締め付けられるような。
 ベッドに横になって、天井を見上げる。……俺たちには本来、睡眠や物を食べることとかの、人間らしいことは必要ない。ただ、マスターができるだけ俺たちにも人間のような行動をしてほしい、と願ってくれたから、俺たちもできるだけ、マスターのお願い事をかなえようと思ってる。
 だから一応、こうして寝たり、食事をしたり。本当は、必要のないものだけれど。

 「……ます、た」

 ぽつりと呼んでみる。ないはずの鼓動が、どくりと音を立てた気がした。
 腕を上げて、目を閉じて目元を覆う。深く、息を吐いた。
 最近、ずっとこうだ。マスターのことを考えるたびに、ないはずの鼓動が音をたてる。
 痛いわけじゃない、苦しいわけじゃない。ただ、ざわざわする。
 そのざわざわする心が、何なのか、今の俺にはわからない。

 「……お兄ちゃん?」

 かたん、とふいに音がして、呼びかけられた声。ベッドから身を起こせば、ミクが心配そうな表情で顔をのぞかせていた。
 おずおずとした様子で俺を見ていたから、おいでと手招いた。そうすればぱぁと表情を明るくさせてぱたぱたと駆け寄ってきた。
 ぽすん、と俺の横に座って、俺の肩に身体を寄せてくる。触れ合った肩から少しだけ感じる、あたたかさは錯覚なのか、それとも、本当なのか。……そんなことを、思ってしまう。

 「何か、珍しくマスターがパソコンの電源切っちゃったみたいだから……何かあったのかな、って」
 「ううん……俺がちょっと、失敗しちゃっただけだよ」

 心配させたくなくてふるりと首を振りつつよしよしとその緑色の髪を撫でた。さらさらとしたツインテールの髪が、俺の腕に絡まってさらりと落ちていく。
 あぁ奇麗だなぁ、なんて。思いながら指先で絡めればするりとやっぱり落ちて行って。

 「マスター、失敗ぐらいじゃ怒らないのにね」
 「……うん。でも、俺が……今回は悪いから。あんまり、身が入らなくて」
 「お兄ちゃんが?」

 きょとん、とミクが緑色の目を大きくして瞬いた。心底信じられない、といった風の表情だ。
 それもわからなくはない。実際に俺は半年ぐらいになる今まで、マスターと喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。……他のきょうだいたちとも喧嘩しているのは見たことがないから、そもそもマスターが喧嘩をするかどうかが怪しいのだけれど。
 ミクは悩むように眉を寄せて、俺を覗き込むようにする。大きな目。弱った表情をした俺が映り込んでいて、何だかそれがひどく不思議だった。

 「……いっつもは、お兄ちゃんちゃんと歌えてるよね?」
 「それはもちろんだよ! ……ちゃんと、マスターのために歌ってる」

 とくん。
 ほら、まただ。
 マスターのことを口に出せば、考えれば、とくん、とくんと、あるはずのない心臓が鳴って、胸のあたり――マスターの言葉を借りるなら、「心」が、ふうわりとあたたかくなる感じだ。

 「いつ、から?」

 ミクが、ゆっくりと俺に問いかける。その視線はひどく真剣で。
 考える。調子が悪くなったのは――そう、ユウさんと、ユウさんのカイトと、あってから。
 胸の奥がざわざわする、この嫌だとも言い切れないひどく、どう言ったらいいのかわからない感情も全部、彼らと会ってから。

 「……やっぱり、そうなんだね」

 口に出したつもりはなかったのだけど、俺の考えは唇から洩れていたらしい。ミクはどこか理解したような、悲しそうな嬉しそうな。そんなひどんな感情にも見える表情で笑っていた。
 ミクが身体を起して、俺の頭と首に腕を絡める。そうすればそのままぐいと引き寄せられた。抵抗もできずミクの胸元に頭が寄せる体勢になる。いやあの、いくら兄妹でもこれは、ちょっとまずいと思う、ん、だけ、ど……。
 思わず赤面するも、ミクは気にした様子もなくただ俺の髪をゆっくりと撫でていた。触れ合う体温と、髪を撫で梳いて通り抜けるミクの掌が優しくて何故かとても泣きたくなった。

 「うん、私はわかるよ、お兄ちゃん」
 「わか、る?」
 「……わかるから。……でも、それはお兄ちゃんが知らなきゃいけない」

 ミクの声は泣き出しそうだった。顔を上げたくても、ミクの腕がそれを許してはくれない。
 名前を呼ぼうとすれば、頭に軽い重み。ミクが俺の髪に頬を寄せるようにでもしたんだろう。

 「それがどんな感情なのか。お兄ちゃんが知ったらきっと、世界が変わると思うの」
 「だから、お兄ちゃんが見つけて。……知るまでは苦しいけれど」

 囁くように、ミクが言葉を紡ぐ。まるで歌のように響く、ミクの高くまろやかな声。
 そっと腕が緩められて、俺が顔をあげると同時にミクはふいと顔をそらした。手早く立ち上がって、伸ばした俺の手の先を抜けて行ってしまう。
 指先に長い緑の髪が絡んで、するりと通り抜けて行った。

 「ミク」
 「……私は、お兄ちゃんのこと、応援してるんだからっ」

 振り返って、ミクは笑った。
 俺が知るミクの表情のうちで、とてもとてもその表情は奇麗で、ひどく瞼に焼き付いた。



2009/01/20 Ren Katase