Suicide Syndrome


 【届かない手】

 自分の中でぐるぐるした感情がわからないまま、またいつものようにマスターとの歌の練習が始まって。
 まだそれが気になって、曲に集中できずにたどたどしくしか歌えない自分が悔しいのだけれど、マスターはそれを気にすることなく、俺に変わらずに歌を教えてくれる。
 だから、俺も頑張ってそれに応える。応えたいと思う。……俺には、マスターに渡せるものが歌しかないんだから。

 『うん、今日はここまで』

 マスターがヘッドホンを外して、首に掛けながら俺に笑いかける。
 そのやさしい笑みにほっとしながらそのままぺこりと頭を下げればマスターはいつものようにパソコンに向かいながら頬杖を突いて、俺のその動作を見ていた。
 プロジェクターの上に座り込めば、長いマフラーとコートの裾がプロジェクターをはみ出して、空間に溶けて消えた。
 ……俺とマスターの、近くて届かない、距離。

 『……何か、悩んでいることでもある?』

 ぽつりと、不意にマスターが聞いた。どきりとないはずの心臓が高鳴って、そのまま膝を抱えた。視線を合わせられなくて、そのまま視線を逸らした。
 答えようがなかった。わからなかった。自分の精神ルーチンが、どうしても理解できない方向に流れていくから。
 ……俯いたままになってしまう俺を、とんとんといつものようにプロジェクターの端を叩いてマスターが呼ぶ。顔を上げれば、ほんの少し困ったようにマスターが微笑んでくれて。

 『言えない?』
 「言えないのでは、なくて……」

 言葉が、探せない。
 考えれば考えるほど、自分の心がわからなくなる。
 首を振って俺が答えれば、マスターはそっと、やさしく笑ってくれる。

 『……ゆっくりでもいいよ? もし、今言いたくないなら、それでもいい』

 マスターは、ただ、俺を心配してくれるだけだ。あの日、マスターの前でダメな自分をさらしてしまってから。マスターはずっと、俺を心配してくれる。
 ……言いたくない、わけじゃない。言えないだけ。言葉が、見つからないだけ。自分の感情を説明する、言葉が。

 『僕は待つから。君が言えるようになるまで』
 「……ありがとうございます」

 ……マスターは、やさしい。だからこそ、このぐるぐるした感情を理解できない自分が、苦しい。説明できたらきっと、楽になれるのに、と。
 このまま、もし、歌えなくなったら――俺は、どうなるんだろう。
 マスターは俺をアンインストールするとか、そういうことはしないと思う。確定ではない。でも、マスターはボーカロイド(俺だけじゃなくて)にやさしいから、……多分、だけど。
 でも、ずっと歌えなかったら、このままお荷物になってしまうんじゃないだろうか。マスターは、俺の声が好きだっていうけれど。俺が、歌えなくなったら。
 マスターがどんなに頑張ってくれても、俺が何も変わらなくて、ずっとこのまま、まともに、上手に歌えないままだったら。
 体温のない自分の指先が、冷えるような感覚。人間と同じ感覚はデジタルの世界にいる俺にはないはずだし、俺には――俺を始めとしたボーカロイドには、『恐怖』という感情はほとんど感じないはずなのに。
 今感じているこれが、その恐怖かどうかも、俺には、わからないけれど。
 歌えなくなることは嫌だ。歌えないことで、マスターの傍にいられなくなるのは……もっと、嫌だ。
 俺は、マスターの傍に、いたい。
 離れてしまえば、マスターに――――ない。
 そうして、何かが……かちりと、音が、聞こえたような気がした。
 ――そう、か。

 『……カイト?』

 マスターの声で我に返る。ぱっと顔を上げれば、黙った俺が心配になったのか、マスターが心配そうな……不思議そうな、そんな表情で俺を見ていた。

 「……マスター、俺は、」

 この人の傍に、いたいと、思った。
 もっと、近くにいたいと思った。
 マスターと一緒にいる時間が長い、姉さんやミクやリン、レンが羨ましかった。
 ボディを持って、貴方に触れられる、あの『カイト』が、、羨ましかった。
 『カイト』の髪に触れて、笑いながら話しているマスターを見てて。

 どうして、あそこにいるのが、俺じゃないんだろうって――思ったんだ。

 「俺は、貴方の傍に、いたい、です」

 声が、震える。この感情はまだ、ちゃんとした形としてわからないけれど。
 だけど、貴方の傍にいる人が羨ましい。貴方の横にいられる人が羨ましい。
 感情が溢れだして行く感覚。心が苦しくて、胸が痛い。
 俺はゼロとイチしか存在しない、プログラムの存在なのに。どうしてこんなに。
 ぎゅっと胸元を握りしめた。目を閉じる。マスターが見れなかった。

 『……傍、に?』

 マスターの声が、不思議そうな響きを帯びる。
 顔を上げられない。プロジェクターについた手の指先が、マフラーやコートと同じように現実世界に反映されずに消えた。
 これが、俺と、マスターの距離。
 気付いちゃいけなかったんだ。
 知っちゃいけなかったんだ。
 思っちゃいけないんだ。
 ――触れたい、なんて。
 だって俺とマスターは、触れ合うことなんて、できないから。
 心配そうな表情のままのマスターの手が伸びてくる。でも当然のように触れられなくて、指が俺をすり抜けていく。マスターはそのことに改めて気付いたみたいな顔をして、一度は伸ばした手を握り締めた。
 頬を滑り落ちるのは温かい涙で。どうして泣いているのか、自分でもまだわからなくて。
 苦しい、苦しいよ。……どうして、こんなに。

 『……カイト、どうして、泣いてるんだい』

 わからないと首を振る。話したくなかった。
 マスターが好きだって言ってくれる声すら満足に言えない状態で、話したくない。
 だけどマスターは重ねて俺を呼ぶ。話して、と。
 抱えていた膝は崩れて、座り込んだ。足もまた、空間に溶けて消えてしまう。
 それが、俺がデジタルの世界に存在しているという証、だ。

 「……マス、ター」

 必死になって声を絞り出す。
 少しでも気を抜けば、最初の頃の、マスターに購入された最初の頃の声に戻ってしまいそうで。
 ううん、それが別に悪いんじゃない。マスターは、その声を聞いて、俺を購入してくれたんだから。
 でも、震えてどうしようもない俺の声なんて、マスターに聞かせたく、ない。
 視界が歪む。マスターの表情が見えなくなる。プロジェクターについたままだった掌を握りしめた。

 「俺、マスターの傍に、いたいです」
 『うん』

 言葉を繰り返しながら、手を、上げて。そうして、マスターに向けて、指先を伸ばした。
 プロジェクターの光をすぎると、消えてしまう、俺の指。
 こんなに近くにいるのに、マスターとの距離はとても遠くて。

 「もっと、マスターの傍に、行きたい、です」
 「マスターに、触りたい」

 マスターは目を見張って。それから、泣き出しそうな顔で、笑った。
 眼鏡の奥、伏せられた瞳。ブリッジに触れた手が、顔を隠した。

 「……貴方が、好きなんです、マスター」

 作られて、操作されているはずの感情が、止められない。俺の中でぐるぐると渦巻いた感情。好きと思う心、羨む感情。人間みたいだなんて、どこか、ぐちゃぐちゃになった意識の端で思った。
 俺は、いったい、どうなってしまうんだろう。



2009/03/11 Ren Katase