Suicide Syndrome


 【手の届かない場所】/h2>

 最初は、ただのボーカロイドだったんだよ。
 自分がボーカロイドに特別な感情を抱くだなんて、これっぽっちも、そんなの思ったことがなかったんだよ。
 だけど……違った。

 『もっと、マスターの傍に行きたい』
 『マスターに、触りたい』
 『貴方が、好きなんです、マスター』

 伸ばされた指先。触れられないそれ。
 その涙を拭いたいと思わず手を伸ばし、その頬を指が擦り抜けたことで改めて彼らが「触れられない存在」だと思い出し、無意識に眉を寄せた。
 ぱたぱたと涙を落とすカイトを見つめて、眼鏡のブリッジを押し上げる。
 正直に言えば、あまりに突然のことで言葉にならなかった。自分の感情もまだ整理がつくはずもなく、だからこそどう答えたらいいかわからなくて、カイトから視線をそらしたまま。

 『……ごめん、なさい』

 どう伝えていいかわからずに口を閉ざしていれば、目の前のカイトがぽつりと言葉を落とした。
 顔をあげて、カイトを見る。涙を拭うこともしないまま、カイトは自分を抱きしめるように腕をまわしたままうつむいていた。

 「カイト」

 声をかける。カイトは自分を抱きしめるようにした腕を解いて耳を塞ぐようにして、ふるふると首を振った。さらさらと青い髪が揺れて、光をきらきらと弾いたのを奇麗だな、とか思って。
 言葉を探せない僕の前で、カイトは静かな声でごめんなさい、と繰り返す。僕の手から逃げるように身体を引いて、身体中で僕を拒絶するようにしながら。

 「カイト、待って!」

 かけた声は彼に届いたのかどうか。瞬きをする間に彼の姿はプロジェクターの上から崩れるように消えていった。
 引き留めることはおろか届いたかもわからない制止の言葉をかけることしかできずに、カイトの姿が消えたプロジェクターの上を見つめる。力が抜けて、そのまま椅子に寄りかかれば、ぎしりと椅子の背が鳴った。
 額に手をあてて、深く吐息を落とす。真っ直ぐに向けられた、純粋なココロ。
 ……ボーカロイドは人間に恋をする。僕は、それを知っている。
 ただ、それが、自分に向けられるなんて――欠片ほども思っていなかったし、考えたことすらなかった。
 ボーカロイドは、人間に恋をする。
 その気持ちは彼らがヒトでないが故に純粋で真っ直ぐで、嘘がない。『マスターだから』好きになるのとは別に、彼らがきちんと恋愛感情に対して向き合うことができることを、僕は知っている。
 ……ただ、僕はどうだ?
 カイトは僕を好きだと言った。触れたいと言った。傍に行きたいと、そう言った。
 その感情を受け入れて、カイトに好きだって言ってあげるのは簡単だ。ただ、彼の感情と、僕の感情の間にずれがあったとしたら?
 僕が、彼の感情を肯定することは、彼にとってマイナスになってしまうんじゃないだろうか。

 「……何か、あったの?」
 「めぇ」

 かけられた声に我に返る。リビングに入ってきたらしいメイコが僕を見て、不思議そうに眼を瞬いていた。
 額から手を離して小さく呼べば、困ったような表情で笑う。僕が彼女を『めぇ』と呼ぶ度にする表情だ。幾度もちゃんと呼べと言われてきたし、年月はかなり過ぎているにも関わらず、どうしても最初に覚えてしまった呼び方で呼んでしまう。
 ……理由の何割かに、困った顔が好きだっていうのは内緒。

 「……カイトに、好きって言われた」
 「やっと?」

 ……めぇの言葉を、一瞬聞き逃しそうになった。
 やっとって。それって、どういう。
 露骨にそんな考えが表情に出たらしい。めぇはきょとんと目を瞬いてたからふふ、と優しい笑みで微笑んだ。

 「カイトはずーっと、貴方のことが好きだったわ。……私には、わかるの」

 めぇには、わかる。
 そんな単純な言葉が、ずしりと胸の奥に重みとして残るのを感じた。申し訳なくなって視線を逸らせば、めぇは普段はさほど呼ぶことがない僕の名前を小さく呼んで。

 「それなのに、あの弟はどこに行ったの?」

 僕は簡単に彼女に説明してみせる。
 カイトが僕に好きだと言ったこと。突然すぎて答えることができなかったこと。謝罪の言葉を残して、姿を消したこと……。
 めぇの表情は難しくなっていって、悩むようにその形のよい眉を寄せる。口元に細く長い指を押し当てて、うぅん、と小さく唸り声をあげた。
 そのめぇを横目に僕はカイトを呼び出そうとエディタを起動する。……けれど、カイト自体は姿を現さない。
 エディタは起動している。……カイトが、出てこないだけ。
 通常、ボーカロイドはエディタの起動と同時に人の姿のプログラムで姿を現す。だけど、今のカイトは姿を現さない。音は出る、声も出る。だけど、カイトの存在が姿を現さない。一度止めてからまた起動してみる。
 ――結果は、同じ。

 「カイト、出てこないの?」
 「そう、みたいだ」

 どくりと、心臓が高鳴った。……嫌な予感で。
 カイトが、このまま姿を現さなかったら?
 このまま彼が、消えてしまったら?
 ふとそんなことを思って、ぎゅうと胸が締め付けられるような感覚に襲われる。

 「……貴方も、カイトが好きなんでしょう?」

 すとんと、めぇの言葉が僕の心に落ちてきた。横のめぇを見れば、めぇはすごく優しく微笑んでいて。
 ……それはまるで、弟を見るような、表情で。

 「……好き、なのかな」

 僕の大切な、やっと手に入った、綺麗な青いボーカロイド。
 特別と見たことはなかった。みんな、平等にしてきたつもりだった。……少なくとも、僕としては。めぇの言い方から考えても、おそらくは、違ったんだろうけれど。
 彼が姿を消したプロジェクターに触れて、目を伏せる。頭の中でこだまするのは、ついさっき、僕に泣き出しそうな声で訴えたカイトの言葉。
 『マスターに、触りたい』
 我儘を口にしないカイトの、初めて僕にした唯一の願いなんだと、ふと、思った。……その我儘が、僕の傍にいたいなんて。可愛いな、なんて思ってしまう。

 「……カイトが姿を現さないことは、ユウに聞いてみればいいと思うの。だけど……その前に」

 めぇはそこで一度言葉を聞った。
 僕をのぞき込むようにして視線を合わせ、その細い指先を僕の胸元へと突きつける。

 「貴方の心を定めるのが、先よ」




2009/03/22 Ren Katase