Suicide Syndrome


 【きみとともに。】

 俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。
 ゆっくりと頬を撫でるあたたかい掌の感覚と、呼びかける穏やかな声。気を抜いてしまえば途切れてしまいそうな意識を掴んで、うっすらと目を開く。
 ……開いた視界には、見覚えのない天井だった。
 天井……? あれ、だって、フォルダの中は天井らしい天井なんてなくて。PCの中と言うことを否応なく突きつけてくるような真っ黒い闇があっただけだった、はずで。
 なら、これは、どこ?

 「カイト」

 聞こえたのは、俺が知っているのよりもずっとクリアな声だった。その声を、俺が聞き間違えるはずがない。
 そうして、俺がゆっくりと瞬いた視界に映った、見慣れた穏やかな笑み。少しだけ色素の薄い茶色の髪と、同じ色の瞳。
 ずっとずっと、触れたかった……傍にいたかった、俺の、大事な人。
 「ま、す……たー……?」
 小さく呼べば、マスターはどこか泣き出しそうな表情で頷いた。のばされた手が、俺の頬を撫でて、触れる。それは、意識がまだはっきりしていなかったときと同じような、やさしくて、慈しむような。
 ……ふれ、る?
 「やっと、君の願いを、叶えられる。……おいで、カイト」
 マスターの声は少しだけ震えていて。その表情はうれしそうで、だけどどこか泣き出しそうだった。だから、俺からも手を伸ばした。横になっていたらしいソファからおずおずと身体を起こして、すぐ傍のマスターが呼ぶ声に導かれるように、両腕を伸ばす。

 だれよりも、ふれたかったひとが、そこにいる。

 伸ばした腕が取られて、少しだけ離れていた距離がなくなる。ふわりと身体が受け止められて、服の上からでも伝わる体温と、しっかりとそこに『在る』ことがわかるヒト。
 「ます、た……」
 唇からその人の存在がこぼれ落ちれば、感情が崩れるなんてあっと言う間だった。ぼろぼろとこぼれる涙を止められずに、泣きじゃくりながらマスター、と幾度も呼ぶ。
 マスターは俺の背中を宥めるようにゆっくりと撫でながら、ただ、静かに俺の声を聞いているようだった。

 +++++

 マスターに抱きついて、どれだけ泣いていたか覚えていない。声も嗄れて、落ち着いた頃にマスターはそっと俺の身体を抱きしめていた腕を緩めた。
 それに気づいて顔を上げれば、涙でぐちゃぐちゃになってるだろう俺の頬を掌で拭って、いつも通りに優しく微笑んでくれる。
 「カイト、おはよう」
 「……おはよう、ございます」
 こんな掠れた声、前に練習しすぎて声を嗄らしたときと同じだなぁなんて思って笑みが漏れた。それにつられたようにマスターも同じように笑って、ゆっくりと髪を撫でてくれる。
 くすぐったいけど気持ちよくて、ふれられるのが嬉しくて。俺に触れるマスターの手に自分の手を重ねれば、マスターがきょとんと目を瞬いて。それからくしゃりと表情を緩める。
 「あの、マスター、俺」
 「カイト、……」
 一瞬、その言葉を聞き逃した。信じられなかったからかもしれない。だから、マスターをただ見つめ返した。
 マスターの少しだけ色素の薄い瞳に、俺のきょとんとした顔が映ってる。どうしたらいいかわからないような、そんな途方に暮れた表情。
 「カイト?」
 「あの……もう、一度言ってもらっていいですか」
 確かめたかった。自分の耳が拾った言葉を、確かめたかった。それが間違いじゃないかって、そう思ってしまっていたから。
 マスターは俺の言葉を聞きながら、いつも見せてくれていたような困ったような仕方ないなぁって顔で頷いて。

 「……好きだよ、カイト」

 わかった?というように軽く首を傾げて見せた。頬に血が上るような熱い感覚。たぶん、俺の頬は真っ赤なんだろうなぁって思っていれば、よしよしと頭を撫でてくれた。 「マスター、あの、それって」
 俺の言いたいことがわかったんだろう、マスターはうん、と頷いてくれた。
 「そう、君と一緒」
 一緒、ということは。俺と、同じってことで。
 ぐるぐると意識が巡る。わかっているんだけどどう反応していいかわからない。ぎゅうって感じに胸がなって、苦しいんだけど嬉しくて、どうしたらいいかわからない。
 「ありがとう、ございます」
 「どういたしまして……カイト、僕の話聞いてくれる?」
 マスターの話? わからないまでも首を傾げて、とりあえずはこくりと頷く。マスターは俺の手を軽く取って、そっと繋ぐようにしながらゆっくりと口を開いた。
 「君に最初言われたとき、正直困惑した。……でも、君の側にいたいと思った。君が、大切だと思ったんだ」
 目を伏せて、時々俺の手を撫でるように手を触れさせて。優しい声が、ずっと聞きたかったクリアな声が囁くように言葉を紡ぐ。
 「……君とともに、生きていきたい。一緒に、いてくれるかな」
 視線が、俺を見た。真っ直ぐに、視線を合わせて。伺うような視線を見つめ返して、涙が出そうだったのをこらえて、静かに頷いた。
 マスターと一緒にいたいって、それだけを、思ってた。嫌われるのが怖くて、否定されるのが怖くて。でもマスターはそれでいいって言ってくれた。
 「俺も、一緒にいたいです。マスターと、一緒に」
 手のひらを握り返して、笑みを浮かべる。ちゃんと笑えてたかが心配だけど、またぎゅ、と抱きしめてくれて。その温もりにほっとして、目を伏せた。

 ずっとずっと、俺の側にいてください。
 俺も、ずっとずっと、あなたの側にいるから。



2010/03/19 Ren Katase