Suicide Syndrome


 【ぬくもりの在り処】

 それはマスターのお仕事が休みのある日のこと。
 「ごめん、めぇ……風邪薬あったっけ」
 弟妹たちの調整を終えてリビングに戻ってきたマスターの第一声がそれだった。俺の前でマグカップ(中身はココア)に口をつけていた姉さんは悩むように眉を寄せながら椅子をかたんと鳴らして立ち上がる。
 「なぁに、風邪気味?」
 短い距離を数歩で詰めた姉さんはマスターの顔を覗き込むようにして、顔色はちょっとよくないわね、とひとりごちる。
 「風邪薬探すから、先に寝てた方がいいわ。カイトに部屋まで持たせるから」
 「……うん、そうしておく」
 いきなり名指しで言われて目を瞬くけど、俺にそれを断る理由もなくて。自室のある三階への階段を上っていくマスターが一瞬見せた弱々しい笑みが気にかかって視線を足元に落とした。
 俺の動きに気付いたらしい姉さんはすれ違い様に俺の頭を弟妹たちにするようにぽんぽんと撫でて、大丈夫よと笑いを含んだ声。
 「引き始めなら、薬飲んで心と身体に栄養とればちゃんと治るんだから」
 「……そうなんだ?」
 「人間の治癒能力って、意外と侮れないのよ」
 普段から置いてある救急箱を取り出した姉さんはおどけたように軽く肩を竦めてみせて。かたことと中を探る内、今度は背後からばたばたと走る音。
 その複数の音が近づいてくるなり風邪薬を取り出しながら姉さんはきっ、と厳しい表情で顔をあげた。
 「家の中は走らないの!」
 「ふぁっ」
 「わわ、ごめんなさいっ!」
 反射のように謝る妹たちの声。背後を振り返れば手を驚きながらも取り合うミクとリン。さらにその後ろから悠々と歩いてくるレンの姿が見えて。
 「マスターの具合、大丈夫そう?」
 俺の横の椅子を引いて座りながら正面の姉さんにレンが問いかけて、レンとは逆側のソファに腰掛けたリンとミクが身を乗り出す。
 姉さんの様子を窺うようにしていたリンとミク、正面のレンへとひとりひとり視線を移しながら姉さんは頷いて見せる。
 「風邪薬があるから大丈夫。あんたたち、静かにしてなきゃダメよ」
 はーい、と異口同音に声が揃ったことに姉さんは満足げにしてみせた。手早い動作でトレイに風邪薬と水、それから冷蔵庫から氷枕とタオルを用意して俺の前に差し出す。
 「これ、ケイに。あと、カイトはそのままいること」
 「え、でも」
 「心配しなくてもボーカロイドに風邪はうつらないし、心にも栄養が必要だって言ったでしょ?」
 そういって姉さんは悪戯ぽく笑って見せる。横をちらりと見れば平然とした表情のレンと、 何もかもわかってそうな表情で笑う妹たち。
 「……じゃあ、行ってくる」
 元々逆らう理由はないのだけど、ここまでされてしまったらさらに理由なんてなくなってしまう。
 トレイや色々を抱えてマスターの部屋に向かう俺の背後で、弟妹たちに買い物に行くように話している姉さんの様子だけが窺えた。



 最初の部屋割りの相談の時に色々あって、俺とマスターは同じ部屋で寝起きを共にしている。
 つまりマスターの部屋は俺の部屋でもあるんだけど、それでも病気のマスターがいる部屋にノックもなしに入るわけもいかないので軽く一度だけ、ノック。
 ……あれ。
 いつもなら返ってくる答えがない。それでもこのまま立ち尽くしていては意味がないから、そーっとドアを開けた。
 静かな、部屋。無駄に高性能な耳は微かに響く寝息だけを拾い上げる。ベッドの上、眠るマスターの姿が見えた。
 少し離れた机の上にトレイや色々を置いて、マスターの傍らに椅子を持ってきて座る。氷枕にタオルをかけたのはいいけれど、マスターを起こしてはいけないし。
 熱があるんだろうか、普段からそんなに色素の濃くないマスターの頬に赤みが差しているように見えて、そっとその額に手を伸ばした。指先で触れて、それから額に手を乗せる。
 「……う、ん」
 微かな声と一緒にマスターがゆっくりと瞼を押し上げる。思わず額から手を離してしまった俺をその視界に映して、やんわりと微笑んだ。
 「カイト……来てくれたんだね」
 ほっとしたようにマスターは笑って、それから目を覚まそうとするように軽く目元を擦ってから緩く視線を巡らせる。
 「えと、マスター。風邪薬と、あとこの枕」
 一度立ち上がって机の向かい、渡さなきゃとトレイごと差し出すとマスターはベッドの上で上体を起こす。それから薬と水とを受け取って、枕は少し待ってと示して見せて。慣れた仕草でさっさと薬を飲む様子を見ながら、それを凝視するのもよくない気がして思わず視線をさ迷わせてしまう。
 枕を頭の下に敷いてもう一度横になったマスターは俺を見上げてカイト、と名前を呼ぶ。だからはい、と言葉を返した。トレイを机の上に戻してからマスターを振り返る。
 「ごめんね、今日、できなくて」
 マスターが言うのは俺の調整のことだ。今日はマスターのお店がお休みだから、弟妹たちと俺と、二回に分けて調整することになっていた。だけど、こうしてマスターの身体の調子が悪いから流れてしまった。
 ……わざわざ謝ってくれるマスターは、とてもやさしい。
 「いいえ。……まずは、お身体を治してください」
 「……ありがとう」
 ほんの少しだけ申し訳なさそうにマスターは笑って、それからふぅ、と深く息を吐いた。
 マスターを待っているのは俺や弟妹たちだけじゃない。お店の常連さんたちとかだって、マスターが本調子じゃないと心配だろうから。
 「カイト」
 「はい」
 またマスターの枕元に座った途端に呼び掛けられ、反射のように思わず答える。俺を見上げていたマスターは少しだけ考えるようにしてからあのね、と口を開いた。
 「カイトの手を、額に乗せてもらっていていいかな」
 ……俺の、手?
 不思議に思ったのがそのまま顔に出てたのか、マスターはそうと頷く。おずおずと言われるままに手を伸ばして、その額に触れた。
 「ありがとう……カイトは少し、体温が低いから気持ちいいし……やっぱり、君だから安心する」
 瞼を伏せてほっとしたように囁くマスターの言葉に、姉さんの「心にも栄養が必要だ」という言葉をふと思い出して。
 あぁ、そうなんだ、なんて思った。
 「……俺、マスターが起きるまでこうしてます。だから、少し寝てください」
 一度だけふっと目を開いたマスターは嬉しそうに微笑んで、微かな声で再度ありがとうと囁いて。そうしてそれからまた目を閉じる。
 しばらくしてまた響き始める小さな寝息と触れた額からマスターを感じながら、俺はただマスターの風邪が完治して、元気になってくれることだけを考えていた。



2011/04/03 Ren Katase