「出かけるぞ、カイト」
とても唐突にマスターが言い出したのは、冬も近づいたある日のこと。僕がマスターにインストールされてから半月が経とうかというぐらいのことだった。
前々からマスターは突然の動きがとても多い……と言うのを出会ってから約半年の今頃になってやっと知った。思いつけば突然出かけるとか、あそこに行くここに行く、そんなのがとても多かったから僕の思い違いではないと思う。……で、今日もそんなマスターの気紛れかなと思ったら、今日は何だか反応が違う。どこに行くかまでは告げずないまま僕を車の後ろに乗せて(マスターは助手席に乗せるのを嫌がる。「事故ったらいちばん危ないから」だそうだ)、走らせること数分。
「着いたぞー。とりあえずカイト、降りろ。オレは駐車場に車入れてくる」
そう言って僕を下ろし、マスターは駐車場へ行ってしまった。その間に僕はたどり着いた建物を見上げる。少なく見積もって20階はある感じの巨大なマンション。人間の感覚はよくわからないけど多分家賃とか僕(の身体)が1つ買えるんじゃないだろうか。そうやってぼんやり呆けていたら、マスターにいきなり背中からつつかれた。僕らボーカロイドは耳がいいから、マスターの足音の判別が可能なんですよ? そう言えばマスターは不満そうに唇をとがらせる。普段は飄々としている風で格好いいのに、こういうところが妙に子供っぽい。
行くぞ、と僕の前に立って歩き出すマスターを追う。エレベーターホールを抜けて、エレベーターに乗れば目指すは15階。いきなり動いた拍子に驚いてよろめけば、マスターが呆れたような様子で僕を支えてくれた。ちん、と到着を示す軽い音が鳴るまで、数十秒。マスターの足取りに迷いはなく、すたすたととある扉の前まで歩いて行った。やっぱり迷いなくインターホンを押す。ピンポーンと軽い呼び出し音がして、ほぼ同時にはぁい、と中から呼びかける女性の声。目を瞬く僕の前でその扉が開かれた。
「はい、いらっしゃい」
「よ、めーこ。今日も美人だな」
「ありがとう。いつも通りね。……さ、どうぞ。彼が待ってるわ」
気軽に交わされる言葉に瞬く。扉を開いたのは茶色の髪の女性で、めーこ、とマスターは呼んだ。口調から考えれば仲が良いというか……むしろ、恋人みたいなやりとりだ。……見覚えがあるなと首を傾げばそれもそのはず、彼女は僕と同じボーカロイドじゃないか。僕と同じ01タイプの女性ボーカロイド、MEIKO。マスターのところには他のボーカロイドたちがいないから、その姿はどこか新鮮に写った。僕の視線に気づいたらしい彼女が僕を見、にこりと優しい笑みを浮かべた。
マスターと共に招かれるままに扉の中へと足を踏み入れる。少し広めの室内はモノトーンと青を基調にした感じだった。インストールされている常識的な行動をするためのプログラム通りにお邪魔します、と声をかけながら玄関に足を踏み出せば、マスターは勝手知ったる、という風にさっさとひとつの扉を開いていた。
「来たぜケイーっ」
「相変わらず賑やかだなぁ。もう少し落ち着けないのかい」
マスターとは別の、やわらかく穏やかな響きの声がした。そのマスターの背後に肩から落ちかけたマフラーを直しながら立てばこい、と手招かれる。その手招きに応じるままに足を踏み入れれば、どうやらそこはリビングらしかった。キッチンと一体化したカウンターダイニングとテーブル、ソファ。テーブルの上にはパソコンが置かれてる。
穏やかな声の主は僕の前まで歩いて来て、にこりと笑う。声と同じような印象を持たせるやさしい笑みで、マスターよりも少しだけ身長が小さい感じだ。マスターが軽薄な印象を与えるなら、この人はずっと落ち着いた印象を持たせる人。
「ほら、カイト挨拶」
「あ、はい。……初めまして」
「うん、初めまして。聞いているかもしれないけれど、僕はケイ。こっちはメイコ」
マスターに促されるまま挨拶して頭を下げる。その人――ケイさんは横に立っていたメイコさんも同時に紹介してくれた。彼女もまた、にこりと笑って頭を下げる。似たような印象を受けるのは、メイコさんのマスターがケイさんだからだろうか。顔を上げれば、あと、とケイさんが少しだけ身体をずらした。テーブルの上に置いてあるパソコン、そのディスプレイに見える位置に立っていた4人の姿に目を瞬く。
「この子たちが僕のボーカロイド。皆、ご挨拶は」
『はい。初めまして』
『初めましてー!』
緑の髪の初音ミク、金色の髪の双子、鏡音リンとレン。そして――。
僕と同じ、青い髪にマフラーの、カイトがいた。
同型に会うなんて聞いてない。そう思ったけれど、横のマスターは笑みを絶やさないままでどこか満足げだ。おそらく、マスターのことだから僕を驚かせようとして教えようとしていなかったんだな。……本当に、意地の悪い人だ。
「ユウ、唄わせるのは後にして……カイトのこと、見せてもらっていいかな」
「……何だ、気になるのか?」
「うん、少し」
僕を挟んでケイさんとマスターさんが会話をしている。ケイさんは僕にソファを勧めて、マスターを見れば促すようにするからそれに従って素直に腰掛ける。僕を挟んで立ったままの二人は顔を見合せて何事か話している。
「……へー……すごいなぁ。髪とかすごい綺麗。高いだけあるね」
「まぁ高いだけじゃねぇだろうがな」
ケイさんの指が僕の髪に触れる。さらさらと彼の指から僕の髪が滑って落ちていく。……マスターに聞いたけれど、僕のボディはかなり高価なものらしい。壊すなよ、とか言われたけれども別に壊す予定もないし壊すつもりもないんだけど。だいたい、そんなに簡単には壊れないと思うし……うん、無茶しなければ。別に無茶といっても、ひどくされなければ平気ですし。何が無茶かと言われても困るのですけれど。
ふと、視線を感じて目を上げた。僕の視線の先、パソコンの中。こちらをじっと見ている青い瞳があった。
……正しく言えば、僕を見ているのではない。僕の横――僕の髪に触れている、ケイさんをじっと、見ていた。
その瞳がすぃとそらされて、そのまま彼は僕に背中を向けてしまう。聞こえてくるのはケイさんの双子とミクちゃんが歌う声だ。そうしてそれに、僕のよりも少しだけ柔らかな音で響く彼の声が重なる。
あの目が、気になった。
どこか、切なげで、泣き出しそうな。たぶん彼は気づいていないんだろう。
……あの表情に浮かんだ、感情に。
あの後、彼らと歌を歌い、ケイさんから歌の調教を受けて、さらには夕食を頂いて帰路に就くことになった。マスターと共に車に乗り込み、ケイさんのマンションを後にする。横で車を運転するマスターはどこか機嫌が良さそうで、僕もほんの少しほっとする。
「楽しかったか、カイト?」
「はい。歌もたくさん歌えましたし」
他の子たちと歌えるなんてあまりない機会だから、素直に喜ぶ。ある程度お金のある人でないと、僕と一緒に他の子たちとを購入するのは難しい。マスターは僕のボディを購入するぐらいだし、お金のない人だとは思っていないけれど……何か、買わない理由とかもあるのかな。
……聞く必要はないから、聞かないけれど。
「……あの、マスター」
それとは別に、聞いてみたいことがあったから、口を開いた。マスターは運転中だから僕を見ないまま視線だけで僕を促した。少しだけ視線を下げる。手元を見つめて、それからゆっくりと口を開いた。
「向こうの、カイト……マスターの、ケイさんの、こと」
「止めろ」
マスターの瞳が、すぅと細められた。低い声が制止を口にする。マスターのハンドルを握る手元が少しだけ強められた気がした。マスターがそんなことを言うのが初めてな気がして、思わず言葉を止めた。
「だって、マスター」
「オレたちが余計な事を言う必要はない」
マスターの声はひどく硬質で、冷たく響いた。マスターはケイさんと仲が良いから、てっきり全部わかっているものだと思っていた。……違う、きっと、わかっていて言っているのかもしれない。
「だけど! ケイさんが気付いてくれれば、それだけで……」
「カイト」
咎めるような、低い声。
「いいか、絶対に口にするなよ。……命令、だ」
マスターの命令。それは、僕たちボーカロイドにとって絶対だ。僕は口を閉ざして、そのまま眼も一緒に閉じた。マスターの姿は見えなくなる。
……向こうのカイトは、ケイさんが好きだ。あの視線は、きっとそう。でもあの子は気づいていない。確かに、それを知らせるのはいけないことかもしれない、けど。
放ってなんて、おけないじゃ、ないか。僕と同型のボーカロイド。そして――。
僕と同じように、マスターに、恋をしている、なんて。
2009/01/15 Ren Katase