Suicide Syndrome


 【4th Day】

 ……マスターが帰ってこない。
 ソファに座ったまま膝を抱え、ぼんやりと宙を見つめる。……何をするでもなく、ただ、ずっと座ったまま。何をする必要性もない。
 マスターは僕をはじめとしたボーカロイドたちのボディを作ったり、メンテナンスしたり、そんなお仕事をしている。たまに電話がきて、難しい話をしているからたぶんそうなんだろう。僕のボディも、マスターのところで作ってくれたとかいう話をしていたような気がするけれど、詳しくは覚えていない。
 普段は遅くなるときは連絡もくれたし、こんなに遅くなるようなことはなった。……ちらりと電話に目を向けるも、うんともすんとも言わない。こんな深夜まで、マスターはどうしているんだろう。
 「……マスター」
 ぽつりと口にすれば、きゅう、と胸の辺りが苦しくなった。
 この心を自覚したのは、マスターにせがまれてカイコの格好をした時だ。あの時――腕の中に、抱きしめるように、されて。どきん、とイミテーションの心臓が音を立てた。顔が熱くなって、どきどきして止まらなくなって。落ち着いて認識すれば、それが「恋」というものだ、って、気づいて。
 ……だから、こそ。僕は、あの子の表情に気付いたのだけれど。
 ケイさんの『カイト』。
 彼を思い出すと同時に、厳しい言葉で僕を制したマスターのことも共に思い出す。
 『やめろ。あいつらに関わるな』
 ボーカロイドが、人間を好きになるなんて、製作者側であるマスターの側から見たらおかしいんだろう。
 所詮僕たちはひとではない。人権もなく、ひととは認識されない「もの」だ。僕たちだけじゃなく、アンドロイドもそうであるのだけれど。アンドロイドは僕たちほど感情が豊かに作られていない、というのもある。
 だけど、僕たちはマスターを、人間を好きになるようにできている。恋の歌、人を好きになる歌。人が人へ伝える歌。誰かを想うための音は、自分がその感情を理解しなければ、感情をこめて歌うことなんてできない。だから、製作者は僕たちに、感情が育つように設定されている。
 その感情が、自分にとっていちばん近い人に――マスターに対して向けられることは、そんなに珍しくはない。もちろん、それは僕だけというわけじゃない。僕以外にも、マスターに恋をするボーカロイドは存在しているし、……そうやって、恋人同士って言われる人たちも、少しだけれど、いると聞いた。ただ、あくまで噂以上のものではないし、もちろんその場合は異性同士だし。
 別に、僕がそうなりたいわけじゃ……ない。そう言ったら嘘になるかもしれない。だけど、なれるとは思わない。僕とマスターはそもそもそも男性同士。マスターはミクのような可愛い女性が好きなのは知っているから。僕はこのまま、マスターとボーカロイドの関係でいい。
 溜息をひとつ落として、膝に顔を伏せた。
 ……不意に。がたん、と音がした。
 顔を上げる。ソファから立ち上がって、リビングから廊下に出ればちょうど扉を開いたマスターがいた。ふわりと鼻をくすぐるのは強いアルコールの匂い。……マスター、お酒飲んできた?
 「マスター」
 声をかけて少しふらふらしている様子のマスターに近づいていく。手を伸ばせば僕の肩につかまるようにして玄関から廊下に上がる。そのままマスターを連れてリビングを抜けようとして。マスターはお酒に強いイメージがあったんだけれど。たまに、家でも飲んでいるからよく知ってる。
 僕よりも背の高いマスターに肩を貸して歩くのは結構大変で。それでもマスターを担ぐようにしながらそのまま寝室へと足を向ける。普段、僕はマスターと一緒の部屋では寝ていない。マスターは僕にもひとつ、部屋を与えてくれたから。
 「……よし、と」
 ぐでんぐでんに正体がないほどに酔っているマスターはうー、とかあー、とか意味不明な言葉をぼやきながらそのままベッドに横になった。ふと思いつけばリビングに戻って、そのままキッチンの冷蔵庫から水の入ったペットボトルを持って寝室まで戻ってくる。
 「マスター? お水持ってきましたよ」
 寝室に戻ってきても、マスターはまだそのまま横になっていて。水の蓋は開けないまま声をかければ目を閉じているマスターがうぅ、と小さく唸り声を上げる。そうしてうっすらと目を開いた。僕のことを見上げて、しばらく目を瞬く。……起きた、かな? そんなことをふと思ったら、ぐっと、手首をつかまれて。
 声をかける隙もなく、そのまま腕を引かれて、視界が反転した。
 天井をバックに、マスターの顔が視界いっぱいに映る。どくん、とイミテーションの心臓が音を立てた。持っていたペットボトルが僕の手から離れてシーツを転がり、落ちて行ったのを横目で見やればごとん、と床に落ちた音。……あぁ、蓋をしていなくてよかった。とか、意味のない、言葉を考えて。
 「ます、」
 口を開きかけるもその唇が深く、塞がれた。
 唇同士が触れる、その温もりに思わず動きが止まった。キスというよりも、もっと荒々しい……噛みつく、というような感じのそれ。呆然と目を瞬いてしまえば塞がれた唇にねっとりと舌を這わせられて、思わず唇を開けばそのまま熱い舌が口の中へと入り込んでくる。
 どうして、何で。そんな考えばかり頭の中を支配して、ぞくぞくと背筋を駆け上がる何かを感じながら、それでもボーカロイドやアンドロイドに組み込まれた逆らうことを許さない習性が抵抗しようとする自分の思考を阻む。それでも縋るようにマスターの肩を掴んで、きつく目を閉じた。
 嫌じゃない、嫌じゃないんだけれど。だけど、こんなの、望んでない。望んでいるけど、望んでいない。こんなの、は。
 「だ、駄目です、マスター」
 無理に唇を離して見上げる。ふるりと首を振って見上げれば、アルコールが入っているらしいマスターの瞳が、たぶんアルコールが入っているせいだろうけれど妙に虚ろで、それが何か、嫌だ、と感じた。そんなことを感じるなんて、ありえないはずなのに。
 もともとマフラーはしていなかったけれど、コートの前が開けられて、マスターの手が直に肌に触れる。肌が泡立つような感覚がして、マスターの掴んだ肩を押すようにしてぎゅっと唇を噛んだ。自分の精神を奮い立たせるようにして頷けば、ぐっとマスターを押し返すようにする。
 「嫌です、マスター。いや……っ」
 本当なら、マスターにこんなこと、言ってはいけないのに。抵抗なんてしてはいけないのに。力をこめて押し返すようにすればマスターが虚ろな目で僕を見下ろして、そうしてゆっくりと僕の頬を撫でて。そのマスターが浮かべた、ひどく優しくて穏やかな笑みに、一瞬、言葉を失った。そうして、その瞼がゆっくりと落ちて、くたりと身体が僕の上に落ちてきた。
 「……え、?」
 そのまま、マスターはすぅ、と寝息を立て始める。マスターはぐったりと僕の上に被さったままで。耳元で聞こえるのはとても静かな寝息だ。……これ、僕はどうしたら、いいの、か。起こすこともできず、動かそうとした腕をマスターの背中にまわすこともできずに。マスターが目を覚ますまで、このまま、ってこと?
 少しだけ困って、でもこのままにしておくわけにもいかなくて。僕が触ってもマスターが起きないことを確認してからそっと自分の上からマスターをベッドにおろす。変わらずに眠り続けているマスターに毛布をかけて、触れようと伸ばした手をそのまま、引いた。
 彼が僕に触れたのは、きっと女性か何かと勘違いしただけ。きっとマスターのことだから、目を覚ませば覚えていないだろう。……うん、その方がいい。その方が、マスターにとっても、僕に、とっても。……その方がいいんだ。
 僕は、マスターのことが好きだけれど。……マスターにとって僕は、道具だ。ボーカロイド以上になんて、なれない。だから、忘れていて、マスター。
 すぅすぅと穏やかに眠り続けるマスターを見下ろして、意を決したようにひとつ、頷いた。そっと身を屈めてその額にそっと唇を押し当てる。
 僕は……これだけで、ないはずの心があたたかくなるぐらい、幸せなんです、マスタ。
 気付かないで、忘れていて。僕に何をしたのかなんて。
 どうか、僕が貴方を好きだってことを、気付かないでいて。
 「……おやすみなさい、マスター」
 静かに呟いて、そのまま背中で扉を閉めた。



2009/02/18 Ren Katase