「お兄ちゃんー」
呼びかけてくる二重奏とぱたぱたとかけてくる足音、そうしてぼふっという音とともに背中と腕にかかる小さな重み。背中でそれを受け止めて、アオはぱちぱちと目を瞬いて背後を振り返る。見えるのはふわふわと揺れる緑色の髪と、腕にくっついた金色の髪。
「スイ、カナリア」
二人の名前をアオが呼べば、カナリアが先に顔をあげた。大きな緑色の瞳を瞬いて、ふにゃっとした気の抜けた笑顔を向ける。背中からカナリアとは逆の腕にスイが腕を絡めて抱きついた。緑と青の瞳がそれぞれ、アオを見上げる。
「どうしたんだい?」
「あの子とお話ししたの?」
「あの、藍色の子!」
小さな『妹』たちはアオを見上げて口々に言う。ぱちぱちと青い瞳を瞬いたアオは『藍色の子』という言葉にそれが誰を意味するかを理解して柔らかく笑みを見せる。妹たちの頭を優しく撫でながら、うんと素直に頷く。
真白い部屋の中で、ただ一人色をもつ、『藍』。
それを思い出して、アオは口元に笑みを浮かべる。穏やかに微笑む表情を思い出しながら二人とともに廊下を歩きだす。頷いたアオにきゃぁと二人は声をあげ、矢継ぎ早に質問を投げかける。どういう人なのか、アオに対してはどういう反応をするのか。
興味津津な妹たちに丁寧に答えながらアオは三人で廊下を歩く。彼が、アオに対して心を開いた理由は分からないまでも、妹たちからの答えられる質問に関してだけは答えつつ。たとえばそれは彼の様子だったりとか、声は発してくれないのかだとか、そんなような言葉ばかりで。
「そんなに気になるの? 彼のこと」
「だって」
「ねぇ」
青い瞳と緑の瞳がアオを挟んで笑いあう。どこか悪戯っぽい表情に幼い子供のようだと微笑みながらその金と緑の髪をよしよしと撫でた。きゃあと喜び合う二人はアオの手をつかみ、そのまま手を繋ぐ。三人並んで歩きながら向かうはボーカロイドやアンドロイドが『収容』されている病棟の方で。
「アオ兄に懐く人って結構いるんだけどさ、『カイト』が懐くのって珍しくない?」
「個体の問題なのかわかんないけど、『カイト』って、コウお姉ちゃんとか、コーラルちゃんに懐きそうなイメージがあるんだもの」
「あぁ……」
楽しげな二人の言葉にきょとんと眼を瞬いたアオは納得する。個体としての『カイト』は母性に弱いというか、年上の女性などに弱いというか。同じ『カイト』であるアオから見てもそんな印象がある。実際にそれがすべての個体に通用するかどうかは別としても、多い、という印象はある。妹たちはそれを知っているが故にあの『カイト』がアオに懐いたことが珍しい、ということだ。
ボーカロイドは個体別に懐きやすい部類があるのか、それとも単なる偶然なのか。『カイト』と『メイコ』はお互いに懐きやすく、『リン』と『レン』もお互いに懐きやすい傾向にある。『ミク』は『カイト』や『メイコ』のような年齢の高いボーカロイドに懐きやすい。それでも、一例にすぎないのだけれど。
「ほら、二人ともそろそろ仕事に戻らないと」
病棟の前までつけば、アオは両腕にくっついたままの二人と繋いだ手を離す。少しだけ拗ねたような表情をした二人は、それでも自分たちの仕事を思い出したのかぱたぱたと病棟の中へと走って行った。アオと似たようなスケジュールを組まれていたらしい二人は互いに笑いあいながらそのまま姿を消す。
ぼんやりと入口に立ち止まったまま、二人を見送ったアオは二人の言葉を思い出す。視線を足元に落としたまま、小さな溜息をひとつ。
(……『彼』はどうなのかな)
彩と名をつけられた『カイト』。『メイコ』である彼らの同僚、コウは相手をするボーカロイドとアンドロイドが多いため、彩とは会話をしていないということをアオは笹谷から聞いた。
(もしも、ぼくより先に、コウ姉さんと話をしていて)
――懐いてしまっていた、ら。
(彼とぼくは、出会うことなんてなかったんだろう)
とくん、と。ないはずの心臓が立てる音に、アオはぱちりとひとつ目を瞬いた。そっと胸元に手を当てても、そこから鼓動などするはずもなく。音すらしない静かな己の身体に自分が『何』であるかを改めて自覚して、アオは苦く笑みを浮かべて見せた。
(患者に感情移入するなんて、らしくない)
ふるりと緩く首を振って中へと歩き出しながら、一瞬よぎった感情を見ないふりをする。時折すれ違う患者と一言二言会話をしつつ、アオは自分が担当する患者たちのところへと歩いていく。だいたい一人につき患者は多ければ五人から六人にもなる。
現在アオが担当しているのは彩を含めて四人になる。それぞれ一人一人日によって相手を変え、時には一日に二人相手をすることもある。手に持ったカルテを眺め、人数を数える。今日は二人、と小さな声で呟いて、そのまま真白い廊下を歩きだした。
アオたちボーカロイドに渡されるカルテは大体がボーカロイドのもので、担当する技師からそれぞれカウンセリングに行く際に渡される。カウンセリングと言ってもボーカロイドたちと会話するだけにすぎず、アオたちに詳しいカウンセリングなどはできそうにない。
「こんにちは、今日もお話に来たよ」
ひとつの扉を開いて声をかける。今日の話し相手は『ミク』。アオの持つカルテによれば、マスターと引き離されてのち、そのマスターの知り合いの元をたらいまわしにされたことで精神が不安定になっているとあった。最初はスイやコウが話に来たらしいが、女性マスターが多かったらしく女性に対して不信感を抱くということで代わりにアオが相手をすることになった。
「こんにちは、お兄ちゃん」
一瞬少女の表情がこわばり、それからアオを確認して柔らかくなる。アオが知る限り、ここまで話してくれるようになるまで一か月がかかっている。触れることこそせずにいるが、最近は引き留めたいのか軽く袖を握るぐらいにもなった。
「調子はどうかな、元気かい?」
「うん。ちゃんとお兄ちゃんが言う通り、ボク、おとなしくしてるよ」
機嫌良く微笑む表情は穏やかで、アオはその旨を渡されているカルテの端に記載していく。ボーカロイドのカウンセリングはこれが主な役割で、些細な会話の中から一つ一つメモしていく。例えば、おどおどしている様子が見えたりだとか、妙な雰囲気だったり、そんな些細なことが精神的な何かを引き出していることもあるせいだ。
(……精神状態は良好、かな)
「それはよかった。……他に、何かあったかな」
「ううん。今日お兄ちゃんが来てくれたことぐらい」
ふわふわと笑う表情にアオは微笑み返して、よかったと頷いて見せる。そういえば『患者』と話すのは久しぶりだとふと考える。彩は言葉を発しなかったからだと思い至って、自分がずいぶんと彼を気にかけていることにアオは驚く。
そんな意識の端に残る感覚に違和感を抱きつつ、少女との会話を三十分程度。手首に巻いた時計の時間に気付いて、頷きつつ立ち上がった。
「じゃ、今日はそろそろ行くね。また今度」
「うん、またねお兄ちゃん」
手を振ってそのまま病室を出る。背中で扉を閉めて、溜息をひとつ落として。思った以上に考えを彼に取られているような気がしてアオは額を押さえる。ふるふると首を振りつつ、微妙に眉間に皺を寄せた。次の病室へと歩き出しながら自分の感覚に悩みつつ、不思議そうに自分で首を傾げる。
「……次が、彩くん、だなぁ」
ぼそりと呟き、今までの『患者』に対する感情とは違う感覚に支配される意識に悩みながら彩がいる病室の前で足を止めた。
今はまだ、このツクリモノの心が作る感覚が、理解できそうにない。
2010/02/17 Ren Katase