Suicide Syndrome


 【03】

 『彩。彩、まだ寝ていたのか?』
 聞きなれた声に彩はゆっくりと目を覚ます。静かにひとつ瞬いて、視線の先の相手を見上げた。長い指先で柔らかく頭を撫でた相手はそのまま手を離し、彩の眠っていたソファから離れていく。
 ソファから上体を起こす彩の視線の先、背中を向けている彼の表情はリビングの窓から差し込む光で見えない。かすむ目元を擦り、立ち上がる彩はほどけて足下に落ちていたマフラーを首に緩く巻きなおしながら緩く頭を下げた。
 『おはよう彩。ねぼすけだな』
 マスターの前だというのに飛んだ失態を見せたと視線を向けられない彩の耳に届く、くすくすと小さく笑う声。聞きなれた、彩にとってその声はすべてであって。
 自分を購入し、自分に『彩』と名付けた自らのマスター。
 ――お前の名前は『彩』だよ。カイトという種類ではあるけれど、お前は、『彩』だ。
 初めて目覚めたときに、マスターは彩にそう言った。優しく微笑んで、長い指先で頬を撫でながら。マスターに目覚めさせてもらったのはそう遠くないときのはずなのに、彩にはひどく懐かしく感じて。
 この人に、たくさんのものを教わったのだとふと思いだして、彩はそっと目を細める。
 声を、音を、詩を、歌を、感情を。――そして、他人を、想うということを。
 『おはようございます、マスター……申し訳ありません』
 目の前で眠りこけてしまうという体たらくを見せてしまったと謝罪する彩に、マスターはただ微笑んで、いいんだと囁くように言葉にする。柔らかく笑むその表情に少しだけはにかむように微笑んで、彩はマスターに届くだろう声でありがとうございます、と述べる。
 『ねぼすけな彩も起きたことだし、また歌を始めようか』
 促すような言葉に彩ははいと頷いて、自分の居住まいを正す。ふと視線をあげれば、マスターはいつの間にやら彩に対して背中を向けていて。
 『……』
 マスター。そう、呼んだつもりだった。
 喉を滑るはずの声は音とならずに、彩は目を瞬きながら己の喉に掌を当てる。こくんと唾液を呑み込んで、正面に立つ姿を見つめて目を瞬く。振り返ったはずなのに見えない表情。強い逆光。どうして、顔が見えない?
 『彩』
 マスターの声が、彩を呼ぶ。いつもと変わらないその響き。踏みだそうとした足は動かず、マスターが一歩、彩に近づいてくる様子だけが見えた。
 指先ひとつ動かせない彩の前に立つ姿。こんなにも近いのに顔は見えず、彩はといえば相変わらず声を発することができずにいて。
 マスター、マスター。呼びたいのに声はでない。手を伸ばしたいのにさっきまで動いていたはずの手が指一本として動きそうにない。


 そうして。


 耳の奥で聞こえた音。衝撃。光と、音。
 『マスター!』
 振り絞り叫んだ声は届いたのか。焦点の合わない視線の先。冷たい地面の感触と、伸ばした自分の掌すら揺らぐ視界。動けない身体。
 どうして。どうしておれだけを助けたんですかマスター。おれはひとではないのに。
 あなたこそが助かるべきだった。
 あなたこそがおれにとって絶対だったのだから。
 だから、おれよりあなたが大切だったはずなのに……!
 護れなかった、救えなかった。無力な自分の伸ばした手は、あの人にまで届かなかった。
 届けば。この手が届きさえすれば。
 伸ばした手が、何かに触れて。


 「――!!」


 叫び声が、声になることはなかった。
 開いた視界に映るのは、真っ白い天井と、自分を心配そうに覗き込む紫を混ぜた朝焼けの空の色。
 「彩くん?」
 上体を起こして荒い息を繰り返す彩に呼びかける柔らかい響きを持つ声は、彩と同じでありながら響きの違った、耳に優しく届く穏やかな声。名前は――アオ。彩が収容されたメンテナンスセンターのボーカロイド、その中で彩の担当になると言った。
 その笑む表情が。心配するその、瞳が。
 「……」
 まだ色あせることのないマスターの姿とどことなく重なって、彩は眩しげに空色の瞳を細めた。
 数日に一度、カウンセリングと検診を目的としてアオはこの彩のいる病室に訪れる。手にカルテ、格好は人間と同じ白衣のものの、左腕につけた腕章に明記された「Vocaloid」の文字とその見目で彼がヒトではないことがわかるのだろうけれど。
 自分とは違う、自分と同じ個体。……そんな違和感に彩はアオから視線をそらす。決してその違和感はアオが悪いわけではなくて、彩が悪いわけでもなくて。
 「魘されてたから。大丈夫?」
 人好きのする柔らかく優しい表情で微笑んで、アオはそっと手を離す。夢の中で伸ばした手が触れたのは、アオの手なのだったかと彩は表情を微かに曇らせる。
 そう、彩の手は届かなかった。
 届いていれば、彩はここにはいなかった。
 彩の表情が曇ったことに気づいたらしいアオがそっと握っていた手を離す。申し訳なさそうに眉を下げて笑って、困ったように視線をさまよわせる。
 「……ご、ごめんね?」
 小さな声で謝罪を述べてから、あのね、と彩を覗き込む。視線が絡む、紫を刷いた青の目と空の瞳。怪訝な表情を浮かべている彩に、アオは悲しげな笑みで笑って見せて。
 そのままかたんとベッドの傍に置き去りにされている椅子を引き寄せて座ることで、アオとベッドに座ったままの彩の位置が少しだけ近くなる。
 「あの、ね」
 一度そこで言葉を切ってから、改めてアオは彩の手を取った。びくりと肩を震わせた彩が手を振り払うより
早く、アオの両手に掌が包み込まれる。触れる体温は互いに程近く、互いの体温が混ざり合うような錯覚さえ生んで、他人と触れあうことに慣れていない彩は引こうとした手を困ったような表情で押さえる。
 「……君の声が、でないのはわかってるよね」
 知っていることを今更何を言い出すのかと眉根を寄せる彩に、アオはただ普段通りに柔らかく微笑んで。
 「君が今、何を叫んでも、ぼくには伝わらないよ」
 思ってもみなかった言葉にきょとんと目を瞬いた彩と、微笑むアオ。声はなくとも、技師たちは唇を読むことができるはず、と難しい表情になる彩の表情から言葉にならない言いたいことを読んだのか、アオは気の抜けた笑みで笑って。
 「ぼくらボーカロイドには、読唇術はないよ」
 だから大丈夫。そう言葉を続けて、アオはにこにこと笑う。その表情を一度消して、悲しげでいて、ひどく優しい表情で笑って、動きを止めたままの彩の頬をそっと、指先で撫でた。朝焼けの色が、そっと伏せられて薄い瞼と青い睫毛に隠される。
 その仕草は、まるで。
 ――彩。
 「君が何を叫んでも、ぼくには何も、聞こえなかったから」
 どくりと、偽りの心臓が音を立てたような気がして、彩はくらりと視界が回るのを感じた。
 ため込んだ思い、苦しみ、痛み。冷静になる意識と反比例するようにどくどくと偽りの心臓がただ、音を立てていく。握られたアオの手を無意識にきつく握り返して、ぎりりと唇を噛んだ。
 「……!」
 音にならない声で叫ぶ、こえ。
 どうして。
 どうしてあのヒトだけが、どうして自分だけが。
 生き残ってしまった。あの人はもういないのに。
 自分にどんな意味があるのか。マスターがいないのに。
 いっそ今、――してくれれば。
 ぐらりと視界が傾いで、彩は己の視界が歪み始めていることに気づいて目を瞬く。
 呪文のように彩自身が繰り返す言葉は、ただ音にはならないまま、まるで彩の内部へと澱のように固まっていくようで、彩は酸素が足りない魚のように浅い呼吸を繰り返す。
 とさりと背中がシーツに預けられたと思えば、掌で白い天井が見えていた視界が覆われて。
 「……大丈夫、ぼくは、何も聞いてない。だから今は、……」
 眠って、と。穏やかで、どこか寂しげに響いた声で囁く音に導かれるように、彩はふっと意識を手放した。


2010/03/10 Ren Katase