Suicide Syndrome


 【04】

 (……痛い)
 傷ついた己の掌を見つめ、アオは小さく嘆息する。いつものようにカウンセリングを兼ねて彩の病室を訪ね、魘されていた彩を自己判断で起こしたのは数十分前の話。緩い力で開かれている手は力任せに握っていた彩の爪によって傷つけられ、うっすらと血を真似た液体が滲んでいる。調子を確かめるように握って、開いてを繰り返しながらアオはもう一度嘆息した。
 「……ごめんね」
 囁くような謝罪は、目の前でシーツに身を沈めて涙の跡もそのままに浅い呼吸とともに眠り続ける彩に対して。
 ――『読唇術がない』のは、嘘だ。
 ボーカロイドとはいえメンテナンスセンターの『職員』であるアオには読唇術が教え込まれている。読唇術を持っているのはコウとスイ、アオという古参メンバーだけとはいえ、騙して心の内を吐露させたといっても過言でない行動はあまりアオにとって――『患者』と深く関わる必要のないボーカロイドには本来喜ばしいことではない。
 それでも、何故か。手を伸ばさずにはいられなかったから。目を伏せてアオは微かに思う。視線の先、いつもの無表情とは違って幼い様子で眠る彩の、ついさっきまでの幼い様子を思い出す。ぼろぼろと子供のように涙をこぼしながら繰り返された音なき声。
 『どうして』
 『なぜ』
 『あなただけが』
 『おれだけが』
 『死んでしまった』
 『生き残ってしまった』
 最初こそ意味のある文章だったそれは、彩の感情が高ぶり、アオの掌に爪を立てる力が強まるにつれてただただ繰り返されるだけの単語になっていって。そこにあったのは、ただ自分が生きている苦しみと、救えなかった後悔と、助けられてしまった悲しみと。ただ無表情にアオと会話しているだけだった時よりもずっとずっとどす黒く、ずっと重く、ずっと『ボーカロイドらしい』感情の渦。
 (何故、ぼくは聞き出した?)
 魘されていた彩が目覚めたときの、アオと絡んだ視線。その何かを堪えるような、諦めるような、失望するような。そんな表情を見た瞬間、その言葉はアオの口からするりとこぼれ落ちていた。自分でも言ってからそれに気づくぐらいには、ひどく、自然に。そして無意識に。
 今まで何度か顔を合わせ、会話を繰り返してなお、彩はアオの前では冷静な姿を変えようとしていなかった。今回のように取り乱した様子を見るのがそもそも初めてで、アオはそっと目を伏せる。瞼を伏せたままの彩の目元に触れて、閉ざした瞼と穏やかな寝息を確認してから音を立てないように椅子から立ち上がった。
 「……」
 声が聞こえたような気がして、アオは彩に視線を向ける。シーツの上に投げ出された掌が何かを探すようにさ迷って、緩くシーツを掴む。音を持たない薄い唇が、『マスター』と言葉を紡いだような気がした。ゆっくりとひとつ目を瞬いて、アオは一瞬だけ胸に感じた痛みを首を振ってなかった事にする。
 そのまま部屋を後にすれば、ぱたんと背中で白い扉が閉じる音がしてアオはほっと息を吐く。心情を吐露させるということは決して悪いことではない。溜まった澱を吐き出すことで、少しだけでも軽くなることは今までの経験から理解済みだ。それを、ボーカロイドがしてもいいのかというのは別だとして。
 (……嫌な、感覚だ)
 この罪悪感は、いったいなんだろう?
 溜息をもう一つ。溜息をつくと幸せが逃げるって、誰かが言ってたなぁと思いながら歩き出そうとしてふと気配を感じて足を止める。
 「アオ」
 そろそろ一度かけられた声に足を止めた。視線を上げれば技師用の白衣に身を包んだ青年が立っていて、アオは自らの感情に対して複雑な様相を見せていた表情を柔らかく崩す。
 「佐伯さん。動けない子の問診ですか?」
 アオが佐伯と呼んだ青年は問いかけに頷きながらアオの傍までゆっくりとした足取りで歩いてくる。すぐ横で立ち止まると手を伸ばし、子供にするようにくしゃくしゃとアオの頭を撫でた。ふぁ、と変な声の出たアオは照れたような困ったような表情で眉を下げて笑う。
 「今終わったとこ。アオがそんな顔してるの珍しいな?」
 「ぼくにだって色々ありますから」
 おどけて肩を竦めて見せるアオに、佐伯は少しだけ目を瞬いて、それから少しだけ悩むような表情でアオの頭をもう一度くしゃくしゃと撫でてからひょいと顔を覗き込んだ。アオの視線と佐伯の視線が少しだけ絡む。
 少しだけ幼いような表情で微笑む佐伯に見透かされそうな予感がして、アオは笑みを見せて少しだけ視線をそらした。
 「ここ。……例の子だよね」
 アオから目を離し、撫でている手はアオの頭の上に置いたままで居住まいを正してから部屋を指示して佐伯は言い、知らず、アオの表情は微かに固まる。
 このセンターに彩が担ぎ込まれてから二週間。コーラルやスイに全く反応を示さなかったという声を失った『カイト』。技師たちにも一切口を利かなかった彩は、それ故に彼らの間でも話題になっていたようで。アオも佐伯や笹谷、他の技師たちからも彩と関わるようになってから色々と話を聞いた。
 「アオが他人に興味を持つなんて、珍しいね」
 ぱっと手を離し、アオを手招きしながら彼は歩き始める。その佐伯の横を歩きながらアオはちらりと視線を向ける。佐伯の言葉にきょとんと朝焼けの目を瞬いて、それから理解不能とでもいうように眉を寄せ、うん?と不思議そうに首を傾げて。
 「……興味?」
 「そう、興味」
 やんわりと笑顔を向ける佐伯に、不思議そうな表情を崩さないアオは顎に指を当てて首を傾げる。そんなに、自分は彩に対して興味があるように見えるだろうかと考えて、それをそうだとも違うとも言い切れずに視線をさまよわせる。
 ボーカロイドは、同じボーカロイドに対して深く関わらないようにと言われている。深く関われば関わるほど、相手が『死んで』しまう瞬間につらさを味わうことになる。ただ、『職員』であったところでボーカロイドには感情がある。感情があるからこそ、それを完全に止めることはできない。
 「スイやカナリアはよく興味持ちすぎて泣いてるのに、アオはないなぁって思ってたんだけどね」
 あるんじゃないか、と佐伯は笑う。
 「うちのカイトは感受性高くてよく泣くからさ、……アオもそうかなぁって思ってたんだけど、アオはすごく冷静だから。カイトはカイトでも個体で違うんだろうなって思ってたんだけど」
 「そう言えば、佐伯さんはカイトを持ってらっしゃるんですものね」
 「うん、俺の家族」
 にこにこと笑う佐伯をアオをじっと見つめて、家族、と言葉を繰り返す。ここにボーカロイドを連れてくるマスターによっては、彼らボーカロイドを『家族』と呼ぶ人がいる。アンドロイドであろうと、ボーカロイドであろうと、時折『家族に』と購入する人もいるのだから間違いではないのだろうけれど。
 ふと足を止めて、アオは佐伯さん、と小さく声をかけた。佐伯はきょとんと眼を瞬いてからアオを見て、緩く首を傾げた。
 「……いえ、やっぱり何でもないです」
 ふるりと緩く首を振って笑いかけ、行きましょう、と声をかけながら歩き出す。不思議そうにした佐伯は言葉を返さず、深く問わないままにアオの横に並んで歩き出す。飲み込んだ言葉はそのまま、アオは佐伯に視線を向けられないままに気付かれないように微かに溜息をついた。
 (ぼくは)
 この感情はなんだろうか。アオは心の中で囁きを漏らす。
 『マスター』
 『貴方を』
 『――していたのに』
 声なき声で、繰り返された言葉。それを。
 (……この感情は)
 知ってる。感じたことはなくても、知っている。理解はしている。
 「じゃあ、アオ。俺こっちだから」
 「はい。お疲れ様です」
 手を振って奥へと行く佐伯を見送って、アオは手元のカルテを持ち直す。何枚も重ねられたそれをぺらぺらと意味もなく捲りながら歩いていたものの、ふとそのまま足を止めた。
 「……ぼくは」
 思い出すのは繰り返される声なき声。掴まれた掌から伝わる温もりと、傷ができるほどに掴まれた掌。自分の感情が整理できずに、アオは胸元に掌を押し当てる。近寄らずに済ませてきた。冷静でいようとしていた。泣きながら眠る妹たちを幾度も見ていたけれど、アオはそれがどうして泣くのかが理解できなかった。
 自分たちはモノであるとアオは知っている。作られ、破棄されるものと知っている。姉のコウや、妹のコーラルには冷たいと言われたこともあったが、長い間見ているアオには、それが『当たり前』だから。
 (冷静だといわれるのも、冷たいといわれるのも、慣れたけど)
 笹谷のような人間には、アオのように冷静に対処できるボーカロイドが楽だということらしい。アオが知っているずっとずっと前に、彼はアオにそうやって言った覚えがあるから。そしてそれに反して、佐伯のように感受性が高く涙を流せるボーカロイドを好むような技師もいる。
 アオには、その違いが理解できない。
 静かに溜息をついたアオは目を伏せて、それから佐伯に対して問いかけられなかった言葉をゆっくりと、唇に乗せる。
 
 「……失うことは、つらいですか?」
 

2010/04/16 Ren Katase