Suicide Syndrome


 【05】

 窓の外から聞こえる声に、彩は緩く首を巡らせた。普段はしんと静まり返っている病棟の中、空気を取り込むために開かれている窓から耳に届くのは複数のヒトの歌声だ。見えはしない窓の外、はしゃぐ声と歌う音。
 座っていたベッドから立ち上がり、ゆっくりとした足取りで窓の傍へ近づく。病棟の中心には小さな庭があって、その木の下に数人の人影が見えた。数人のボーカロイドと、その中心に立つ薄紅の髪の少女と青い髪の人影。
 その青い髪の人影に、見覚えがあった。
 (……アオ、か)
 小さな子供たちやまだおどおどとした様子の少女たちの中で、その白衣の姿はひときわ目立つ。3階の彩の部屋からでも見下ろせる小さな庭で、楽しげに笑う青年の姿が見知っているのも相まってひときわ目を引いた。彩は緩く瞳を瞬いて、そっと指先を窓に触れさせてその様子を眺める。
 嬉しそうに笑う『リン』や『ミク』、『レン』に混じって『ルカ』や、彩やアオよりも見た目の年齢の低い『カイト』もいる。アオは彩に会ったときに、時折ここに歌を歌いにきていることを言っていた。ただ、彩が声を出せないことを思い出してか小さな声で謝罪をしていたが。
 今声を取り戻したところで、彩は歌う気にはなれそうにもなかった。彩のメモリにあるのはただ、大切なマスターの思い出と、それを思い出させるマスターが作ってくれた歌ばかりだ。それを、歌う気にはなれそうにない。
 彼らに説明しているアオの視線が、ふ、と上がった。視線を感じたのか緩くさまよった藍色の瞳が窓の傍に立つ彩を捉え、驚いたように瞬いてから嬉しそうに細められて。ひらひらと手を振るから、気付かれると思っていなかった彩はアオを見下ろしたままぎこちなく会釈だけを返す。
 気付かれた故にそこから動くこともできず、病室の外に出る気もないのでただその窓辺に立ち尽くした彩は小さく溜息をつく。珍しく賑やかだと思って見に来たのは間違いだったのかもしれない。視線の先、患者だろうボーカロイドたちに手渡される楽譜だろう紙。アオと手分けして配っていた少女の横でにこにこと人好きのする笑を浮かべて、、指揮棒の代わりにと指を動かしながら手本としてかアオが歌い出す。柔らかく高く響く音に、彩の表情が知らず、強張って。
 (……っ)
 アオが歌う曲は、彩のマスターが初めて教えてくれた曲。マスターが作るオリジナル曲の前に、まず練習しようと教えてくれた曲――だった。
 『彩』
 思い出すのは、耳の奥に残る自分のことを呼ぶやさしい声と。
 『そう、その音……うん、次は半音あげて』
 的確に彩に指示を与える、穏やかな声。
 (ます、たー)
 フラッシュバックする、先日見た夢と。繰り返される呼吸が浅くなって、胸が、呼吸が苦しくなって彩は眉根を寄せる。はぁ、と吐いた息が熱く、自分のものでないような錯覚さえさせられて。胸元をきつく掴んで身を屈める。嫌だ、と彩の意識の底で何かが叫んだ。
 『彩』
 耳の奥で、思いだす声。は、と浅い呼吸が酸素を求めて息を吸い込んで、作り物の肺に届かないまま吐きだされた呼気は空気にとける。力を失った身体をずるずると窓の下に落として、そのまま座ってすらいられずに床に身体を横たえる。胸をきつくきつく掴んで、嫌々と首を振った。
 (……マスター、たす、けて)
 微かに唇が、ただ救いを求めて声にならない言葉を紡ごうと繰り返す。無意識に伸ばした掌が真白い床を掻いて、そのまま彩は意識を失った。
 
 
 +++
 
 
 「……?」
 普段はベッドから動くことのあまりない彩が窓の傍でこちらを見ていたのが数分前。同じボーカロイドである『患者』たちのカウンセリングの一環としての歌のために外に出てきたアオは、今回はこれと技師たちに渡された楽譜の曲を例として歌い終わり、上げた視線の先。もうすでにそこは彩はおらず、きょとんと眼を瞬く。
 「……あそこで見てた人が気になるの?」
 どうしたのだろうと視線を向けたまま目を瞬いてたアオの後ろから声がかかる。穏やかな風に薄紅色の髪を揺らした、腕にアオと同じVocaloidとしての腕章をつけた少女が揺れる髪を抑えながらアオを見ていた。
 「コーラル」
 「いいわよ、行ってきても。もともと今日は私の仕事なのだし」
 付き合わせるのはここまでにしておくわ、と言葉を続けたコーラルはアオの肩を軽く叩き、アオの持っていた楽譜を擦れ違いざまに自然な動作で取ってから二人を見ている『患者』たちに優しく微笑みかける。楽譜を持ち、緩く示すように掌を動かしながら静かな声で歌を奏で始めた。
 つられるように他の『患者』たちが歌い出すのを見つめながら、アオは少しだけ困った表情をする。確かに歌を歌うと言うコーラルに手伝うと申し出てついてきたのはアオの方だ。――理由は至極簡単。
 (……確かに、彼が、気になったから)
 彩。自分が担当している、『カイト』のひとり。
 「コーラル」
 声をかけたアオに歌い始める『患者』たちを指揮しながらコーラルは澄んだ色の瞳を向ける。その呼びかけでアオが何を言いたいかが理解したのか、コーラルはほんの少し微笑んで。
 「行ってらっしゃい。……少し、気になるから早めに行った方がいいわ」
 「うん。……あとでね、みんな」
 気になるから、という言葉にアオは何かを感じて頷く。残念そうな様子を見せる『患者』たちに手を振って、病棟の中へと足を進めた。少しだけの距離が妙に長く感じたのは何故なのだろうか。中庭から彩の病室は思っている以上に近いはずなのに。
 白い廊下を通り、目的の場所に。カウンセリングでもないのに訪れて、彩は迷惑ではないだろうかと考えながら、とんとん、と二度ドアを叩いた。少しだけ待ってから、彩が声を発せないことを思い出してひとつ目を瞬いた。
 「彩くん……いいかな?」
 声をかけながら扉を開く。開いた扉、その部屋の中。
 「……え」
 白い部屋の中、その開いている窓の下。
 倒れ伏した、深い藍色。
 「――!」
 自分がどう叫んだのかは、覚えていない。
 倒れたままの彩を抱き起こし、浅く繰り返される呼吸を確かめる。生体部品の塊と言ってもボーカロイドは『機械』だ。いきなり停止することもないとは言えない。ゆらりとさまよった彩の手が、アオの腕を緩く掴んだ。アオに縋るように、彩の痩身が寄せられて。
 腕を掴まれているが故に動けずに彩の身体を腕の中で支えたまま、アオは服の中から携帯を引っ張り出す。普段から首にかけて、服の中に入れてあるそれの通話ボタンを押した。
 「笹谷さん、急患です……彩くんが倒れていて」
 通話口の向こうの笹谷に冷静に説明をしながら、妙な感覚にアオは眉根を寄せる。倒れている彩を見つけたときのあの背筋がすぅっと寒くなるような、感覚。今まで感じたものよりもずっと違う感情。……理解はできない、それ。
 腕の中の姿に視線を落とせば、浅く呼吸を繰り返す唇が囁くように開かれ、閉じる。
 『マスター』
 『助けて』
 そう読めたのはおそらく、間違いではない。たった一人を願い、たった一人を求め続けている。
 ボーカロイドにとってマスターという存在はたったひとりで、絶対で。それを失ったその苦しみを、アオは知らない。アオには、『マスター』が存在しないから。だけどそれはアオ一人の話ではなく、センターで働くボーカロイドたちにとって当たり前のことで。
 ただ、その当たり前なことを前提としても。
 (だけどぼくには)
 腕の中の彩を落ちつけようと、腕を掴んだ手が緩んだときに手をほどいてそっと手と手を繋ぐ。閉じていた瞼が一瞬ピクリと震えて、口元がほんの少しだけ安心したかのように緩められた。繋がれた手の先にいるアオのことをマスターとでも思っているのだろうことは、その表情でわかった。
 (……失うことのつらさが、よく、わからない)
 自分の患者を失うことで泣く妹たち。
 泣きはせずとも、表情でそれを耐えていることが分かる姉、そして弟。
 (ぼくだけが)
 止まることなくただぐるぐると考えていく思考の渦が、がたん!という激しい音とともに中断される。かつかつという荒い足音と、翳る視界。頬を緩く叩かれてアオは我を取り戻す。正面に膝をついて座る笹谷をぱちぱちと目を瞬いて見つめ、微かな声で呼んだ。
 「……笹谷さん」
 アオを我に返させた笹谷は言葉には答えないまま、アオの腕の中で眠るように瞼を伏せて荒い呼吸をただ繰り返し意識を取り戻さない彩の頬や首筋に触れる。機能を確かめるようにてきぱきと診ながら、ややあって緩んだアオの腕の中から彩を横ざまに抱きあげた。意識を失っている彩の腕が、重力に逆らわずにぱたりと落ちる。
 その腕の動きは普段から見慣れているもののはずなのに、何故かずきりと胸元が痛んだような気がしてアオは緩く目をひとつ瞬く。無意識に胸元に手を当てて。
 「アオ、お前は大丈夫か」
 「……はい、機能は問題ありません」
 そう、この不思議な感覚は、彩が倒れていたことに驚いただけ。
 普段よりも無機質な声で告げ、笹谷がそれにわずかに眉間に皺を寄せてからひとつ、頷いて返す。アオに背中を向けた笹谷は彩をもう一度抱えやすいように抱きなおしてからふらりと立ち上がるアオを肩越しに振り返る。
 「……大丈夫だ、こいつは壊れない」
 ぼそりと。ドアをくぐる直前の微かな一言にアオは深い色の目を瞬く。言われた言葉が理解できないまま、笹谷は姿を消してしまう。急ぎ足の足音と、外で待っていたのだろう担架の走る音が遠ざかる中、アオはただ茫然と立ち尽くしていた。


2010/05/16 Ren Katase