Suicide Syndrome


 【06】

 フラッシュバックを起こしたものの、『沈む』ことはなかった彩とアオが顔を合わせたのは、それから数日経過してからのことだった。
 「元気になったようでよかった」
 顔を見せたアオは普段通りにベッドの上で身体を起こして座っている彩にほっとした表情で笑いかけた。まるで自分のことのように嬉しそうに細められる朝焼け色の目を見つめ、彩は曖昧な表情でひとつ、頷く。
 彩の前でぺらぺらとカルテをめくりながら他愛のない話をするアオに対して彩は筆記で答え、アオはそれに笑いながら頷きながら何事かをさらさらと書き留めていく。
 「あぁ、そうだ」
 そんな普段通りの会話の最中、アオがふと顔を上げた。ふにゃりと気が抜けるような人懐っこい笑顔を彩に向けて、心底嬉しそうに笑う。
 「外出許可が出たよ。……まぁ、病棟内だけだけど」
 言ってから、ちょっとだけ困ったように笑いながらアオは言葉を続ける。
 病棟内のみ、という言葉に彩はきょとんと目を瞬いてから首を傾げる。元々、彩にとっては外出する気はなかった為に、ある意味寝耳に水ともいえる。
 「彩くんは外に出ようとしなかったし、最初に他の子とか技師さんたちから説明あったと思うんだけど……たぶん聞いてなかったよね」
 ふふ、と笑み混じりに笑うアオに、彩は困ったような表情を返す。おそらくはこの病棟に来た当初に説明を受けたのだろうが、どうでもいいと思っていたその状態では、記憶にないのも当たり前と言えば当たり前のことかもしれない。
 それと同時に自分がこのアオという青年に関わってから、『他人に関わること』を気にしなくなったと気づいて彩は視線を下げた。『最愛のマスターを失った』という深い深い傷跡が、アオと会話することによって癒されていっているのもおそらく、間違いではないのだろう。
 「さすがに病棟の外に出られるとぼくらの目も届かないから困るんだけど、屋上と中庭を含めた病棟内なら好きに歩いてくれていいよ」
 あ、他人の病室はダメだよと言葉を続けながらアオはにこにこと機嫌よく笑い、自分の腕に巻いた時計を見ながらかたんと椅子を引く音を立てて立ち上がる。
 「屋上とか、気持ちいいから行ってみるといいよ。それじゃ、ぼくは行くね。また明日」
 ひらりと手を振って姿を消すアオを見送り、彩はしばらくぱちぱちと目を瞬きながらするりと静かに動いてぱたんと閉じられた部屋の扉を眺める。
 (歩き、回る……)
 部屋の中、病棟の中。外に出ることなど考えもしていなかった。視線をくるりと部屋の中へと向けてから、すぃともう一度扉に視線を戻す。
 よく考えれば、自分は声が出ないだけで。身体には全く問題がないのだから、動いたって構わないのだ。……ただ。ただ、意識が動くように向かないだけで。彩には、世界などどうでもよかったのだから。
 (気持ちいいから、か)
 これは、気紛れ。そんなことを思いながらゆっくりとベッドから足を降ろし、そのまま外へと繋がる扉へと手をかける。真っ白い扉はするりと抵抗なく開かれ、代わり映えのない真っ白い廊下が続いていた。
 しんと静まり返る廊下を、彩はゆっくりとした足取りで歩いていく。時折聞こえる楽しげな声は、アオのようにカウンセリングをするボーカロイドと『患者』との会話だろうか。
 歩ける場所をぐるりと一周した彩は、そのまま足を屋上へと向ける。ちらりと見えていた中庭でもよかったが、自分の部屋から見える場所と思えば他人の視線にも気づいてしまいそうで、足が向きそうになかった。
 白い階段を上り、屋上の扉を開く。さぁ、と風が彩の藍色の髪を揺らして通り過ぎた。久しく感じでいなかったまぶしい光に空色の目を細めた彩は、そのまま屋上へと足を踏み出していく。
 彩の身長と同じぐらいの高さのフェンスに囲まれた屋上、それよりももっともっと高くすっきりと澄んだ空。同じ色の瞳に空を写して、彩は目を細める。
 ずっと空なんて見てなかったような気がする。自分が見ていたのは真っ白な天井と、真っ白な壁。
 そうして。
 (……ん)
 そんな白い世界の中。自分と同じ、だけど違う。そんな……よく笑う、青い姿。
 何故アオの姿を思い出すのかわからずに、彩は忘れようとするようにふるりと首を横に振る。ゆっくりと歩みを進める屋上の先、まるで檻のように端をぐるりと囲んで立てられたフェンスに手をかければ、センターが高台にあるのを示すように遠くまで景色がよく見えた。
 柔らかく吹く風に藍色の髪を揺らし、彩はぼんやりとした様子で空を眺める。ゆっくりとひとつ、ふたつと目を瞬いて、ほぅ、と吐息を落とした。
 「……きゅーう」
 どれだけの時間そうしていたのか、小さく、小さく声がして。彩はぱちりと瞬いて自分も上ってきた屋上への階段を振り返る。
 「……じゅっ!」
 小さな高い声と、ふわりと揺れた目にも鮮やかな緑色。先に屋上にいた彩を見て、驚いたように大きく開かれた同じ色の瞳。彩にも見覚えのあるボーカロイド、『ミク』。しばらく空色と緑が見つめあって、やがて緑の目がやんわりと微笑んだ。
 彩との距離を数歩詰めて、病院服らしい白い服の裾を摘んで、小さなお姫様のようにのように可愛らしくぺこりと頭を下げて見せる。
 「はじめまして。あなたも、患者さん……だよね。ボクと一緒っ」
 答えようと彩も口を開くも、自分が喋れないことを思い出して無意識に喉に掌を当てた。言葉を返さない彩に気づいたのか、ミクは不思議そうに首を傾げてからぴょん、と飛ぶように彩の前まで歩いてくる。
 「……お声、出ないの?」
 眉尻を下げて申し訳なさそうにするミクに、彩はふるふると首を横に振って見せる。それにほっとしたのかミクはにこっと笑って、彩の横から景色を眺めるように視線を向けた。
 じゃあ、とミクは笑顔で彩に手を差し出す。その意図が掴めずにぱちぱちと目を瞬く彩に、ミクはにこにこと無邪気に笑う表情を変えない。
 「えっとね、ボクの掌に、文字を書くといいのよ」
 彩が反応を返さないことに自分の言葉が足りないことに気づいたらしいミクは思い出したように言いながら笑って。そうしてようやくその意図を知った彩は頷きながら了承の意を示すように長い指先でミクがわかるようにゆっくりとその掌に文字を書いた。
 「ね、お兄ちゃん」
 呼びかけに彩が視線を向ける。掌に文字を書くという意志疎通が通じたことが嬉しいのか、にこにこと笑いながらミクは彩の手をぱっと取って、ぎゅっと繋ぐ。人懐っこいミクの姿に戸惑うような様子を見せていた彩もほんの少しだけ警戒心が薄れ、笑みを浮かべてみせる。
 「いっつも、ここにくる?」
 ここ、と言う言葉は屋上を指しているとわかるが、いつもという言葉に不思議そうにして。
 「あんまりね、他の人に会わないから。お兄ちゃんさえいいなら、ボクと遊んでほしいの」
 ミクの言葉になるほどと頷いた彩はわずかに微笑んで頷く。ぱぁっと表情を明るくしたミクはきゃぁと声を上げて彩の腕にしっかりと抱きついた。
 「ありがとう、お兄ちゃん!」


 ひょんな偶然から出会った小さな『ミク』と彩は、自由になる時間のほとんどを過ごすようになった。掌に文字を書くという難しい意志疎通がいつからか彩がアオとの対話に使うノートを持ち込み始めて。
 そのノートの端に拙いながらも絵を描いていくミクと、それを眺める彩。アオを始めとしたセンターのボーカロイドはこの奇妙な交流に気づいているのかいないのか。彩もミクも、咎められるようなことはなかった。
 ただ、少しずつ、何かが狂っていくのだけは、誰ひとり気づかないままで。
 『最近、調子が悪いのか?』
 いつものように屋上で、フェンスに寄りかかって座りながら筆談で問いかける彩に、横に膝を抱えて座るミクはぱっと顔を上げる。少女らしからぬ曖昧な表情で笑い、それからそのまま視線を俯けて首を横に振った。
 「ううん、そんなことないよ」
 目をそらされてしまえば、彩の言葉はミクには届かない。ミクの様子が気になる彩は少しだけ腕を上げ、手を伸ばしてそっとミクの緑色の髪を撫でた。
 ぱちりと同じ色の目を大きく瞬いたミクは、ほんの少しだけ困ったように、それでもどこか嬉しそうに微笑んで。風にかき消されてしまいそうなほど小さな声でありがとう、と呟いた。
 『元気がないようだから、心配だ』
 さらさらとノートに書き加えられる言葉に、ミクは視線をあげて彩を見てから、ふらりと立ち上がった。普段よりも幾分か強い風がミクの髪と真っ白い病院服のスカートを揺らして通り過ぎる。
 「……お兄ちゃんも、マスターをなくしたんだよね?」
 ぽつり、ミクが彩に問う声は硬く、普段と全く違うもので。文字を書く手を止めた彩はミクを見上げ、頷くこともできないままじっとその幼い横顔を見つめる。
 すぃ、とミクの緑色の瞳が彩を見下ろし、止まる。その瞳に何の感情も見いだせなくて、彩は知らず、こくりと息を飲んだ。
 「ねぇ、お兄ちゃん」
 視線が離れる。風が髪を揺らして、ミクの瞳を隠した。その表情を、感情を見ることは叶わなくて。
 「マスターを喪ったボクたちに、幸せになる道ってあるのかな」
 言葉に応えられず、彩は唇を噛んでノートに視線を落とす。緩く握られた掌の中、少しだけ動いた鉛筆が意味のない線を描いて止まっていた。
 答えられない彩を見下ろし、ミクはぎこちない笑顔で笑う。どこか虚ろみも見えるそれを見上げた彩は声をかけようとするかのように口を開き……そのまま言葉にはできずに薄い唇が閉ざされる。
 「……ごめんね、お兄ちゃん。さよなら」
 小さく、風に紛れた囁き声を残してミクはスカートを翻す。追おうかと立ち上がる彩の手元で、ノートが風に煽られて落としそうになりかければ、それを元に戻す間にすでにミクは屋上から姿を消していた。
 じっと手元を見つめ、彩は小さく嘆息する。
 『マスターを喪ったボクたちに――』
 ミクの声が、脳裏にこびりついて、離れない。
 目元を覆い隠すように掌を当て、まるで自問するかのようにミクの言葉を音なき声で反復しながら彩はその場に立ち尽くしていた。


2010/07/09 Ren Katase