「よし、これならもう大丈夫だろう。外出もいい気分転換になったみたいだな」
「それならよかった」
フラッシュバックを起こした彩の経過を見ながら数日が経過して。彩との会話が細かく記載されているカルテを見ながら特に問題もないだろうと言う技師の言葉にアオは心底ほっとしたような表情を見せる。
そうしてから、ふと気付けば彼を心配している自分がいるというその事実に困惑しながらも技師と表面上は会話して、内心眉根を寄せる。今までの患者にも似たようなことはあったし、そうやってフラッシュバックを起こして倒れるような子も決して珍しくはない。
(それなのに、どうして、彼だけを気にするんだろう?)
心というメモリに引っかかったそれに、アオは小さく溜息をつく。彩に出会ってからと言うもの、アオの意識はずいぶんとかき乱されているような気がする。
彩が何をしたということはない。言葉を持たず、自分から接触することのないボーカロイドに何ができようはずもない。だから、それを気にしているのは何よりも……アオ、自身。
「らしくない」
技師の部屋を離れてからアオは溜息混じりにひとつ呟いて、それから軽く首を回した。生体部品とはいえ人間ではないボーカロイド。常にボディが最新の状態であるわけだから、人間のような疲れは出ないはずなのだが、無意識に人間と同じ行動をしてしまうのは、長年の稼働時間の問題なのだろうか。
(……稼働時間、か)
このセンターにいるボーカロイドの中で、アオは『姉』であるコウに次いで稼働時間が長い。KAITOというボーカロイドが生み出されてすぐに自分もこのセンターで働き始めたのだから当然と言えば当然だ。それなのに。
(ぼくは、失う辛さがまだ、わからない)
つい先日もカナリアの担当していた患者が修理むなしく破棄されることとなり、嫌だと泣きじゃくるカナリアと、それを宥めるスイとセリンとで少々騒ぎになったのはまだアオの記憶には新しい。そうして、アオにはそれがどうしても『何故そこまで泣く必要があるのか』がわからないでいる。
ゆったりとした足取りで病棟に向かい歩きながらまたひとつ溜息をついて、アオはほんの少し自嘲するような表情を浮かべて見せる。
「……長々稼働し過ぎて、壊れてるのかもなぁ」
ぼそりと呟き気分を切り替えようとぺちぺちと軽く頬をたたいてから、辿り着いた病室の扉をこんこんとノックしつつ扉を開く。今日の話す相手である患者のミクは、最近不安定な様子が続いていることがずいぶんと心配だった。
開いた扉の向こう、長い緑の髪を揺らした少女は窓辺に立ったまま、どこか虚ろな瞳でアオを振り返った。
「やぁミク。元気かな」
「……アオお兄ちゃん」
普段と同じように人懐っこく笑いかけるアオに、ミクは囁くような声で名前を呼ぶ。アオが知る限り、不安定な子ではあったものの、普段は非常に快活で無邪気、女性に対して不信感を抱いている以外は年相応より幼い印象を受ける少女だったはずで。
それが、ここ数日で様子が変わった。技師たちは『何らかのフラッシュバック的な要素があったのではないか』と言っていたが、原因がアオにはわからない。マスターを失った以降、彼女はマスターの親類の女性たちの間を盥回しにされ、女性への不信感がある。だが、女性と接する機会も少なく、最近話してくれるようになった屋上で会ったという『同じ患者さん』も、女性ではなかったようなのでアオには皆目見当がつかない状況だった。
「ほら、そんなところにいないで……ぼくと、お話しよう?」
いつものように椅子をベッドの側に引いてきて、腰はかけないままミクに向かって手を差し伸べてアオが呼ぶ。ミクは開かれた窓を背にしたまま、じっとアオを見つめていて動く気配はなかった。
じっとアオを見つめたままゆっくりと瞬くその緑色の目に、感情は読みとれない。アオは努めて笑顔を見せながら、慎重にミクに対して足を一歩踏み出す。
「おいで、ミク。こっちに――」
「……ごめんね、お兄ちゃん」
小さく。アオの言葉を遮りながらミクが呟いた。思わずアオが動きを止める。ミクの顔があがって、ふわりと緑の髪が揺れた。
小さな身体が、窓辺に寄りかかる。
「ボクは、ここにいることに疲れたんだ」
それは、一瞬。
「――!」
アオが叫んで走り寄るよりも、一瞬だけ早く。ミクの姿は、真っ白いカーテンを揺らして消え失せていた。
両腕に抱えていたカルテや色々な書類を投げ出して窓辺に駆け寄ったアオが下を覗き見る。瞬間、ちりちりとアオのメモリに走った――何か。
雑音だらけの記憶。一瞬だけ脳裏に閃いたそれは、今の状況と重なってまた消える。それが現実に直して何秒間だったのか、混乱したアオにはわからない。ただ、ずきずきと痛む頭は何かを訴えているのに。それを取り戻すなと別な何かが訴えているようでもあった。
駆け寄った窓の下。広がる赤と、赤に浸食される緑と白。ぎりりと唇を噛んだアオは握り拳を作りながら、首にかけて服の中に入れてあるPHSを手に取った。
――『患者』が自壊したことを、伝えるために。
+++
ベッドに横たわり、物言わぬただの『機械』になったミクを前に、アオはただ言葉もなく立ち尽くす。技師たちによって綺麗に見た目を整えられたミクは、機械であることもあいまってただスリープ状態になっているようにも見えた。
茫然と立ち尽くすアオの後ろから、ばたばたと走ってくる音と、もうひとつかつんかつんと響く足音。
「兄さん……!」
息を切らして駆け込んできたのはセリンで、どこか無表情にアオは視線を向ける。その後ろから現れた茶の髪の女性……センターのボーカロイドのひとり、 MEIKOのコウへと交互に視線を向けた。自壊した『ミク』は、セリンとアオの二人で交互にカウンセリングを繰り返していた少女だった。そのためにセリンにも連絡が行ったのだろう。
「アオ、大丈夫?」
コウの問いかけにアオは視線を向けて少しだけ微笑んで頷き、そのコウの横にいるセリンはゆっくりとひとつ瞬いたアオと横たわり動かないミクとを見比べてぎり、と唇を噛みながらつかつかとアオに歩み寄り、その胸倉を掴んで朝焼け色の目を真っ直ぐに睨みつける。
「どうして、気付かなかったんだ。どうして、ミクが壊れるまで気付けなかったんだ!」
静かな声でセリンは呟いて、ただ視線を合わせないままのアオの胸倉から押し返すように手を離す。アオは素直に押し返され、一歩だけ足を後ろに下げた。セリンはそのアオに視線を向けないまま、悲しげに眼を伏せて眠り続けるミクの横に立ち、その頬に優しく掌を触れさせた。
アオはただ無表情にじっとぼろぼろと泣くセリンとミクとの姿を見つめる。メモリのざらざらとした感触と、どうしても感じることができない『つらい』という感情を思いながらアオはそのまま視線を足元に向けた。
「俺の患者でもあるけど、兄さんの患者でもあるんだよ? どうして泣かないの、どうしてそんな顔で、何ともないって顔してるのさ!」
振り返り、涙を流しながらアオに訴えるセリンを見返して、そのままアオは無表情のままで視線をそらす。どうして、と問われても言葉を返しようもなかった。自分でもわからないことを、言葉にできるはずもなくて。
「……ぼくは、どうしてセリンが泣くのがわからないよ。どうせ――すぐに、忘れるんだ」
ふと心に浮かんだ言葉を、アオはするりと口にする。アオに視線を向けていたセリンはぎっと唇を引き結び、掌を握りしめる。視線を外していたアオに、不意にぱん!と音と頬にじわりと広がる痛みと熱。驚いたアオの視線の先、右手を振り上げたコウの姿が見えた。
頬を叩かれたのだと気づくまでが数秒、アオは掌をそっと叩かれた頬にあてる。険しい表情のコウと、振りあげた腕をそのまま降ろすこともできずに驚いた表情のセリン。どうして叩かれたかがわからないまま、アオはしばらくぱちぱちと目を瞬いた。
「そうやって涼しい顔で、『自分は何でもありません』って顔をして、そうしてすべて忘れていく」
静かに、押し殺すようなコウの声。寄せられた形の良い眉。どうしてそんな表情をされて、どうして叩かれなければならないのか。アオにはわからずにただコウを見つめる。
アオの頬を叩いた手をゆっくりと下げて、コウはそのまま掌を握りしめた。
「だから、あたしはあんたが嫌いよ」
低く、呟かれた声。『すべて忘れていく』。その声がちりちりと頭の中を横切って、アオは額に掌をあてる。ふるふると首を振って、ずきずきと痛み始める頭に眉を寄せた。思い出せそうで。何も思い出せない。ただ、メモリの奥に何かが、あるような。そんな痛み。
ノイズの入る視界。
微笑むミクと、重なる少女の幻影。ちり、とまた痛んで幻影と現実と、メモリとが重なっていく。
「コウ、姉さん」
「アオ……?」
囁くようにアオはコウの名前を読んで、何かもの言いたげにするも、言葉が出ずにふるりと首を振った。
「……ごめん、ちょっと頭冷やしてくる」
+++
さぁ、と風が頬を撫でる。いつものようにぼんやりと空を眺めながら彩はミクが来るのを待っていた。普段ならば空き時間が被っているのか、待っていればそんなに時間もかからずに姿を現していたのだが――その姿が、今日に限って現れない。
(……調子でも、崩したんだろうか)
彩は、彼女が何が理由でこのセンターにいるのかを知らない。知る必要もないし、知らなくていいと思っていたから聞くこともしなかった。ただ、彩にわかったのは彼女がマスターを失ったという、それだけ、自分と同じなのか、それとも違うのか。――心のよりどころを失った、と言うのだけは、間違っていない。
「……あれ、彩くん?」
不意に背後から聞こえた声に彩は目を瞬く。柵から手を離しながら振り返れば、廊下に繋がる扉から顔を出していたアオと目が合った。アオは彩と視線を合わせて微笑み、ゆったりとした足取りで近づいてくる。その表情にどこか違和感を感じて彩は軽く眉を寄せた。
普段と同じ、それでも少しだけ違うような。それは、違和感。
「ここにいたんだ。……誰か、待ってるの?」
笑みを浮かべながらアオは彩に問いかけ、彩は無意識に音なき声で「ミクが」と口にする。その音のない声にアオは視線をうつ向けながらそうか、と彩に聞こえるかどうかの声で囁いた。
「彼女なら、もう来ないよ」
そうやって彩に向けて笑みを浮かべるアオの表情はどこか悲しげでいて、苦しそうにも見えて。唇を読まれたという事実に彩は気付くも、アオの様子の違うことにそれを追求することはできずに。彩の横に立ったアオは、彩と同じように空を見上げる。そのアオの横顔を眺める彩はそのまま視線をアオから離して眼下の景色へと向けた。
静かにすぎるのは風の音で、彩は自分が声を出せないが故に会話もなく。
「……思い出せないんだ」
微かに、彩の耳に声が届く。少しだけ身長の低い横のアオの声。
「前にもこんなことがあったような気がするのに。……ぼくは、欠陥品なのかな」
溜息混じりの声は彩に言うというよりもひとり言のようで。彩はただ、軽く視線だけをアオに向けて言葉を聞いていた。視線は彩に向けてこない。ただ、じっと眼下の景色を眺めている。
「失うことを経験しているはずなのに、何も感じないんだ。……おかしいのはぼくのはずなのに」
言葉を聞きながら彩はじっとアオの横顔を見つめる。無意識に手を伸ばし、彩よりも少しだけ下のあるアオの頭にそっと手を乗せて撫でた。彩の指先にさらりとアオの髪の感触が伝わる。
その彩の行動に驚いたのかアオがぱっと顔を上げた。大きく朝焼け色の目を瞬いて、初めて彩に気付いた様な表情で見上げながら困ったような表情で微笑んだ。
「……ごめんね。君に言ってもどうしようもないや」
やさしい仕草で彩の掌を自分から離したアオは、俯きながらぽつりと呟き、彩が何かを言葉にする前にふいと顔を背けた。そのまま、少しだけ彩から離れながらひょいと肩越しに振り返った。普段と同じような笑顔を見せて、ひらりと手を振る。
「それじゃ、またね」
かんかんと階段を下りる音を響かせて、アオは彩の前から姿を消す。彩はそれをじっと見つめたままでいたものの、しばらくの間そっと視線を足元に落としてアオの髪を撫でた掌を見つめていた。
2010/07/09 Ren Katase