Suicide Syndrome


 【08】

 「失礼する」
 するりと扉が開いて姿を現した青年に彩はきょとんと眼を瞬く。長く伸ばされた紫色の髪を背中で三つ編みにした青年はカルテを手にしたまま彩の姿を認めてゆるりと頭を下げた。彩にも見覚えのある、『がくっぽいど』と呼ばれる機種の青年。左腕につけた腕章と、その姿から彼もセンターのボーカロイドだと言うことはすぐに認識することができた。
 不思議そうな表情できょとんと眼を瞬きながら見上げる彩に彼は下げた頭を上げ、アオよりもずっと深い宝石のような紫色の瞳で彩を見つめる。この時間はアオが来るはずで、アオではなく彼が訪れたことに彩は戸惑いを隠せないどこか警戒した表情を見せた。
 「今日は、アオが来れないので、代わりに私が来た。……紫苑、と言う。よろしく頼む」
 そう言ってもう一度頭を下げればさらりと長い紫の髪が揺れる。アオが来れない?と怪訝そうな表情をする彩の前に紫苑と名乗った紫色のボーカロイドの青年は普段はアオが座る椅子に座って、カルテをめくりながら軽く困ったように微笑んでみせる。
 「心配ない。……軽いフラッシュバックなようなものだと聞いている。今日がカウンセリングを行うため休みなだけで、明日には戻る」
 ぱちぱちと目を瞬きながら彩は紫苑の言葉を聞く。フラッシュバック、と唇だけで呟く彩を見ていたのか、紫苑は彩に視線を向けながら、その意識を自分へと向けるようにとんとんとシーツを指先で叩いた。考え込むようにしていた彩は気付いたようにぱっと顔を上げ、少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべて見せる。
 フラッシュバックと言うそれの認識は彩にもある。自分自身もそれを起こして倒れたことはまだ記憶に新しい。彩が理解できるのは、それを起こすのが精神的外傷――簡単に言うところのトラウマがあると言う人間及び存在だけだと言うことで。だからこそ、アオがどうしてそうなるかがわからない。
 『フラッシュバック、とは、何故?』
 さらさらとノートに書きつけた几帳面な彩の文字を視線に入れれば、紫苑はさらりとカルテに文字を書きつけながらひとつ瞬き、何か物言いたげに視線をそらしながらとん、とペンの後ろでカルテを叩いた。
 「……それは、私が言うべきことではない」
 守秘義務なのか、それとも別の理由なのか。言葉を濁す紫苑の端正な横顔を見つめてから彩は自分の手の下にあるノートに視線を向ける。自分の返事や問いかけだけが記されている、自分が他人と関わった証。するりとその文字を指先で撫でて、自分の感情に少しだけ戸惑う。
 (……おれはどうして、あいつを案じているんだ?)
 アオのことをそんなにも考えてしまっているのだろうか、と。彼はただ、自分が患者だからこそああして明るく振る舞い、会話してくれているだけで。そうじゃなければ。一瞬、ずきりと痛んだ胸に彩は考えながらノートに文字を書いていた手を止めた。
 (理由が、わからない。思い付かない……)
 ふるりと一度首を振って、彩は顔を上げる。紫苑をまっすぐに見据えて、名前を呼ぶように小さく口を開いた。アオではなく、関わり合いの少ない紫苑なら言えると彩はひとつ頷いて、呼ばれたことは理解したのか首を傾げる紫苑に対し、さらりと書いた文字を示して見せた。
 『頼みが、ある』
 
 
 +++
 
 
 「それじゃ、悠歌さん。お願いします」
 そんなに広くはない処置室のひとつ。椅子に座って笑みを見せるアオと、その横に立つコーラルとコウ。静かな白い部屋の中、椅子に座り、いくつかの器具を身につけたアオは正面に立つ白衣を着こんだ悠歌と呼んだ女性に頷いて促す。少しだけ困ったような表情の悠歌は軽く腕組みをしながらアオに繋いだPCとを見比べて頷いた。
 「アオのカウンセリングなんて久しぶりね。……まぁ、カウンセリングって言ったって、中身覗けるわけだから人間より楽だけど」
 あっさりとした様子で言いながら悠歌はコウとコーラルに指示しながら手際よくアオにさらに器具をつけ、PCと繋いでいく。処置用の椅子に深く沈みこんだアオは興味深げにつけられていく器具を眺めながら、アオと自分を呼んだ悠歌を見上げた。
 「まぁ、あとは任せておきなさい。……それじゃ、少しの間だけお休み」
 「はい、悠歌さん」
 悠歌が子供にするようによしよしとアオの頭を撫でればアオは子供のようにふうわりと微笑んで、頷きながら目を伏せてそのまますぅ、と自分からスリープ状態に落ちていく。そのまま繋がれたPCに表示されていく色取り取りに表示される様々なデータを眺めながら眠り続けるアオの髪をよしよしと幾度も繰り返し撫でた。
 ミクが自壊してからと言うものの、アオの調子がおかしいことにアオ本人も気づいていた。だからこそ、コウからの働きかけも加わってアオ自らカウンセリングを受けることになった。人間がするボーカロイドのカウンセリングは実際にメモリを覗くのだが、それをよしと思わないボーカロイドもたくさんいる。だからこそ、アオやコウ、コーラルのように人間ではなく『同族』が話をして人間に対しての不信感を取り除く必要がある。
 「アオは、忘れているのよ」
 PCのソフトを動かし、それが稼働する様子を見ながら悠歌はどこか悲しげにぽつりと言葉を紡いだ。まるでアオに聞かれたくないとでもいうように。
 「忘れる……? ですが、私たちはボーカロイドです。メモリを自分から忘れることなどできるのですか、悠歌さん」
 不思議そうなコーラルに、悠歌はひとつ頷いてかたかたと叩いていたキーボードの手を止める。同じようにコウもコーラルへと視線を向け、そのコーラルの言葉に肯定するように視線を上げる悠歌へと視線を向けた。
 機械であるボーカロイドが、自分から記憶――メモリを消去することができるのかと。
 「私たちだって、『そう』だと思っていたのよ。ボーカロイドはしょせんツクリモノ。自分からメモリを消すなんて、忘れるなんてできると思っていなかった」
 悠歌は手を伸ばし、眠るアオの頬に指先を触れさせる。スリープ状態に入っているために目が覚める様子もなくただ静かに寝息を立てる様を眺め、コウが小さく溜息をひとつついて視線をそらした。そうして、そのまま口を開く。
 「だけど、アオは忘れたの。……メモリと一緒に、感情も」
 「感情……」
 コウの言葉を繰り返しながら、コーラルは理解できないとでもいうように首を傾げた。ボーカロイドは人間に近くできているとはいえ、どうあがいても『機械』だ。そしてセンターに存在するボーカロイドたちはそれを理解している。それはコーラルだけではなく、コウや紫苑たち、アオにいたっても理解し、彼らのメモリに深く刻まれているもの。
 それは、彼らにとって絶対であり、当然のこと、でもある。
 「……もう、7、8年近く前の話よ」
 小さく口を開いたのはコウで、悠歌はアオの額にそっと掌を乗せる。眠るアオは一瞬唇を開いたものの、意識が戻る様子はなく。悠歌はアオに繋いだPCを変わらずに眺めながらコウの言葉を止めることもなく口を開こうとしない。
 「あの頃は、まだボーカロイドがあまりいなくて。アオも私も、アンドロイド相手の方が多かったの」
 それは、アオが稼働してすぐの話。
 絶対数としてはアンドロイドの方がよほど多く、その頃珍しいボディ持ちボーカロイドだった二人、コウとアオしかいなかったセンターのボーカロイドは必然的にアンドロイドに対してカウンセリングをすることが多くなっていた。アンドロイドはあまり感情が育たないと言われているため、アオとコウのカウンセリングは楽なものになるはず、だった。
 「そんな中、アオがひとり、担当したアンドロイドがいた」
 コウの言葉を悠歌が続ける。アオがカウンセリングを担当した一人の少女。アンドロイドでありながら、優しい主に購入されていたのかボーカロイドに比べては薄いが、アンドロイドとしては非常に感情の豊かな少女型アンドロイドだった。
 アオとコウとで交互にカウンセリングを担当していたその少女に、アオはそれを恋だと知らないままに恋をした。主を失ったアンドロイドと、マスターのいないボーカロイド。そんな二人の関係を、微笑ましく思う者があっても、咎めるようなものがいるはずもなかった。
 だが、幸せは長くは続かない。
 「彼女が、自壊し始めたの」
 感情の豊かで人間のように振る舞うことができるボーカロイドよりも、アンドロイドの方が自壊する率が低いのは誰もが知っている話だ。感情が薄いが故にアンドロイドは沈む方向への感情もなかなか育たない。だからこそ、壊れづらいという話もある。
 だが、アオとコウがカウンセリングしていたその少女は違った。比較的豊かな感情と優しい心を持っていたその少女は、アオやコウが思うよりもずっと早く壊れて行っていた。
 「……そして、彼女は自ら自分の命を絶った――あの、『ミク』と同じ方法で」
 窓から身を投げた少女は、同じように命を絶ったミクと違い何一つ言葉を残さなかった。コウにも、その時の担当だった悠歌にも、そして、誰よりも距離が近かったアオにすら。
 「そして、アオが考えたのは……『忘れる』と言うこと」
 「彼女のこと、記憶、そして『つらいと思うこと』――幼いアイツはそのすべてをメモリから消し去った」
 アオは己を護るため、自分が恋をした少女を忘れ、自分を護るために辛いという感情を忘れた。忘れたという事実すら忘れ、ただ自分がつらいという感情を持たないこと、そして悲しめないことだけを疑問に思うだけで、今を過ごしている。
 「この子のトラウマの根は深いのよ。……私ですら簡単に触れるわけには行かないぐらい」
 小さな子供を眺めるような優しい表情を浮かべ、悠歌は囁く。眠るアオの状態をチェックし、適度に入りこんでメモリの様子を注視しながら時折眠るアオの様子を眺める。
 「ただ、アオがトラウマを負ったということは、ボーカロイドにトラウマを植え付けることができて、尚且つボーカロイド自身がそれを自らの保護のために回避しようとする、と言うことを立証した……それが今にも役に立っているわけだから、皮肉よね」
 笑みを苦いものにしながら悠歌は言葉を続け、その悠歌に視線を向けたコウはひとつ、頷いて。アオと言う前例があるが故に、今現在のボーカロイドたちがトラウマを追ったことを前提に修理や確認ができる。そもそも、それまではボーカロイドにトラウマやフラッシュバックが起こるなど、技師たちですら予測もしてなかったのだから。
 アオを見下ろしてコウは少しだけ手を伸ばしかけ、そのまま引いて。それからコーラルを見てくす、と小さく微笑んで。
 「だけど、『同じこと』が起きたから――あいつは、取り戻すかもしれないと思っているのよ」
 
 
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 「……それで、お前はいいのか?」
 彩がノートに書いた言葉に、紫苑は静かに問いかける。ぐしゃりと手元で書きつけた言葉を握りつぶした彩はその掌に目線を向けたままこくりとひとつ頷いた。ベッドの下にあるごみ箱に握りつぶした紙を放り込んで紫苑にもう一度視線を戻し、その紫色の瞳と真っ直ぐに視線を合わせた。
 「私はお前の担当ではないから、最終的にはアオの判断を仰ぐことになる。……伝えておく」
 椅子を引いて紫苑は立ち上がり、紫色の髪を揺らしながら彩に背を向ければそのまま部屋を出ていく。ぱたりと閉じられた扉を見つめ、彩はそっと目を伏せる。瞼に浮かんだのは、自分に向けて人懐っこく笑う青い姿。
 そうして、そんなアオの表情と重なる、穏やかに優しく笑う、自らのマスターの姿。
 『彩』
 耳の奥で記憶に刻みつけられた、声。
 『彩、逃げて』
 『マスター……!』
 伸ばした掌、届かなかったそれ。
 それは、彩の後悔の形。じっと掌を見つめて、彩はそっと目を伏せる。
 『マスターを喪ったボクたちに――』
 思い出す、ミクの声。虚ろで、どこか悲しげな声が、彩のメモリに焼きついて離れない。
 『幸せになる道ってあるのかな』
 ぎゅ、と開いた掌を握りしめ、彩はその拳を額に当て、深く深く吐息を落としす。
 唇が音もなく何か言葉を囁き、そのまま閉ざされて空気にとけて消えていった。


2010/07/09 Ren Katase