Suicide Syndrome


 【09】

 (ずっと、思いだせなかった)
 メモリの深く、奥底に、ずっと思い出せなかった記憶がある。自分自身で蓋をした、遠く、そしてひどく悲しい記憶。意識をスリープに落としたアオは失っていた遠い記憶の夢を見る。取り戻せなかった感情とともに、自分の内側に封じてしまった記憶。
 『アオ、というの?』
 聞き覚えのある囁くような優しい声にアオは閉じていた目を開く。視線の先、姿は変わらないのに幼く感じる自分自身と、その前に座る優しい容貌をした女性。彼女はアオを見上げ、赤い瞳を柔らかく眩しげに細める。人とは違うことがよくわかる菫色の髪を揺らし、アンドロイドの少女は微笑みながらアオ、アオ。と大切なもののように名前を繰り返す。
 ふうわりとアンドロイドにしては穏やかで柔らかい表情を見せながら少女は笑う。ふわふわと見た目よりもずっと幼い表情で人懐っこく笑いながらアオを見上げて、少しだけ軽く手招いて。目を瞬きながら顔を寄せたアオの落ちた前髪を指先でつまむ。
 『綺麗ね。朝焼けの色』
 言われた言葉にきょとんと眼を瞬いてアオは不思議そうな表情をする。今までに言われたことのない耳慣れない言葉に彼女が離した前髪をつまんで自分の髪の色を確かめるようにして見せる。見慣れた自分の髪の色が不思議に思えてぱちぱちと目を瞬いた。
 (きっと、この時から好きだった)
 言われたことのないその褒め言葉が嬉しくて照れて笑えば、少女も柔らかく澄んだその赤い瞳を細める。そんな幼い姿の二人を、遠くから見ている『現実の』アオはほんの少しだけつらいような、苦しいような表情をして見せた。ぎゅ、と軽く手を握って、伏せかけた目をゆっくりと開き、じっと姿を見つめる。
 目をそらすことをしてはいけなかった。これを、彼女を思い出すために自分はこうしてここにいるのだから。
 「雪香」
 記憶の中のアオと、それを見るアオの言葉が音もなく静かに重なって。そう、彼女の名前すら忘れてしまっていたのだとアオは苦く口元を歪める。掌をぐっときつく握って、それでも目を逸らすことだけはしないようにして。
 『ねぇ雪香、北の方ってどんな感じ? 雪は降る?』
 『降るわ。きらきらとしていて、とてもきれい。昔、マスターともたくさん見たのよ』
 『いいなぁ。ぼくはまだ、雪を見たことがないんだ』
 『いつか、一緒に行きたいね』
 繰り返される会話、繰り返される日常。近づいていく、感情。
 伸ばされる手、繋がれるそれ。視線を合わせ、どちらからともなく笑いあって。
 照れたように微笑む少女と、今よりもずっと素直な笑みを浮かべる昔の自分。
 思い出していく記憶。忘れていた、感情。痛む胸にそっと掌を触れさせて、泣きだしそうな表情でアオは俯く。やさしく幸せな記憶と同時に、つらく、悲しい感情が思い出しながら目を伏せた。
 『そうだね。……いつか、一緒に行こう』


 その約束が果たされることは、なかった。


 『どうして』
 胸元をきつく掴んで、視線の先の幼いアオは首を振る。物言わぬ姿となった少女を前に、ぼろぼろと涙をこぼしながらきつく唇を噛んだ。何も言ってもらえなかった、何一つ頼ってもらえなかった。少女が亡くなったと言う事実と、誰よりも近かったはずの自分が何一つ頼られず、何一つ言われることのなかったことが、幼いアオには苦しかった。
 『どうして、死んだんだ。どうして、ぼくに何も言ってくれなかったんだ……!』
 ただ言葉を繰り返すアオと、何も言わずに同じように涙をこぼすコウと。どうして彼女が自壊したのか、誰一人理由を知ることがなかった。彼女は何一つ理由も痕跡も残さないまま、その命を終えてしまったのだから。
 「そうして、ぼくは……」
 小さく、現実のアオは呟く。少しだけ泣きそうな表情をしながらじっと己の掌を見つめて。苦しかった。耐えられなかった。たったひとり、彼女を心から想ってしまっていたから。
 だから。
 「彼女を、忘れた」


 呟けば急速に意識が浮上して。瞼の裏が明るくなる感覚。アオは閉じていた瞳をゆっくりと開いて、覗きこんでいる悠歌と視線を合わせて微笑んだ。ぱちりと目を瞬いた悠歌がほっとしたような表情で口元を緩め、それから子供にするようによしよしと頭を撫でた。
 「おはよう、アオ。……気分はどう?」
 問いかけられればアオははいと素直に頷いて、それから少しだけ身体を起こした。横に立っていたコーラルとコウを見比べ、にこりと穏やかな表情で微笑んで、それからほんの少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
 「……ごめんなさい、姉さん」
 「いいわよ、謝らなくて。……思い出せたのね?」
 確認するように問うコウに笑みを浮かべて頷き、悠歌がジャックを外していく様子を眺めながら身体をほぐすように軽く首を傾けながら身体を動かす。椅子の上から下りて、ゆっくりと身体を伸ばせばふぅ、と息を吐いた。
 「まぁ、私は手助けしただけだから。……すっきりした顔したじゃない、いいことよ」
 ジャックをまとめてアオが座っていた椅子の内部にしまいこんだ悠歌はアオに向けて微笑み、ぽんぽんと軽く肩を叩く。それに目を瞬けばアオは照れたような困ったような表情で笑って見せた。そのまま悠歌はよしよしと子供にするようにアオの頭を撫でる。
 はい、とそれに頷いたアオが、ふと聞こえたこちらに近づいてくる足音に顔を上げた。不思議そうに視線を向ければこんこん、とドアをノックする音が響いた。
 「……はい?」
 悠歌が声をかければ、きぃとドアが開き、現れたのは紫苑。その姿にきょとんと悠歌が目を瞬き、コーラルとコウが揃ってあら、と声を上げる。紫苑は部屋の中の4人を見回してから長い髪を揺らして頭を下げた。
 「主任もアオもいらしたのか。ならばちょうどいい」
 「ちょうどいい?」
 紫苑の言葉に悠歌が目を瞬く。そう、と紫苑は頷いて、周囲を見回すように視線を向けてからその紫色の瞳をアオに向ける。アオ、と小さく呼んで持っていたカルテをアオに差し出した。素直に受け取ったそれにはアオが担当している今日の患者たちの様子が描きこまれていて、アオはぺらぺらと確認するように眺めて行く。
 「……その、最後の患者だが」
 「最後の、って」
 捲っていったカルテの最後。アオはその見慣れたその姿にカルテを捲る手を止める。
 「患者番号K-1523、個体名『彩』。……つい先ほど」
 静まり返る真白い部屋の中、紫苑の低い声が静かに言葉を紡いだ。
 「……本人の口から、破棄の意思を確認した」


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 とっぷりと陽がくれた部屋の中。彩は閉じたノートの上に置いた自分の手の甲をじっと眺めていた。何もしていなくても、思い出されるのはマスターのことで。目を伏せたまま、彩はゆっくりと手を握る。
 (……おれは、ずるいのかもしれない)
 アオと顔を合わせては言えないと思った。だから、紫苑の存在をありがたいと思い、そのままアオに伝えるだろうことをわかっていて言葉にした。そうして、彩の思う通り彼はアオに伝えると言葉にして出て行った。
 (あいつは、おれを止めるんだろう)
 自分はアオの『患者』だ。アオが自分の破棄を止めないはずがない。彩が思うに、アオは『患者』を大切にしているような様子があった。彩を気にかけるのも、それだからだろうと思っていたから。何より、それ以上の理由が彩には思いつかない。
 (だけど)
 彩は眉を寄せ、ぎゅっと掌を握る。思い出されるのは、『ミクはもう来ない』と知らされたその日のこと。少しだけ様子のおかしかったアオの、たった一つの嘘が彩の心に闇を落としていた。あの時、アオは彩の唇を読んだ。無意識に呟いた彩の言葉をアオはしっかりと読んでその言葉に応えていた。普通ならば、さほど気にも留めるはずがないそれが、どうして自分の心に引っかかっているのか今の彩にはわかりそうにもない。
 『君が何を叫んでも、ぼくには何も、聞こえなかったから』
 (……嘘つき)
 記憶の中の、優しい声。それを信じられない彩はきつくきつく自分の腕を逆の掌で握りしめる。ぎり、と立てられる爪が皮膚を傷つけ、じわりと血が滲む。どうして自分でもアオの嘘が嫌なのかわからないまま、彩はふるふると首を振る。さらさらと藍色の髪が揺れて目元を隠した。
 (もう、嫌だ。……何もかもが、嫌だ)
 小さく溜息とともに、音なき声が言葉を発する。
 『――楽に、させてくれ』


2010/07/09 Ren Katase