Suicide Syndrome


 【ショートストーリー詰め】





















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 「……アオ?」
 開いた扉のその向こう、広々としたリビングはしん、と静まり返っていた。
 時間は深夜、眠れずに起きていた自分の横にアオはいなくて、センターから帰ってきていなかったことは明らかだったから、おそらくは残業か何かだろうと思っていたのだけが……見まわしてみても、アオはいない。
 「……帰ってきた音、したと思ったんだが」
 ひとりの夜はあまりいいことはない。アオがいなければ不安だなんて、思った以上にアオに対して依存しているのだと気付いて小さく溜息をついた。
 真っ暗のリビング。月が出ているのか、窓から青い光が差し込んでいて。ゆっくりと惹かれるように歩み寄って行けば、ソファに人影が見えて足をとめた。
 アオ、と声にならない言葉で呼んだ。帰宅していたはずのアオは、何故かソファに横になって眠っていた。おそらく、疲れて帰ってきてそのまま横になってしまって――眠ってしまった、ということか。
 眠る傍に膝について座り、そっと手を伸ばす。頬に触れようとして、その手を引いた。触れたら、目を覚ましそうな気がして。
 「……アオ」
 囁くように、名前を呼んだ。寝顔をさらしてただ眠り続けるアオの様子は、目を覚ました様子はない。その様子に少しだけ、安心した。
 ここで目を覚まされたら、またアオは心配するだろう。おれが真夜中に目を覚ますのを、いちばん心配するのはアオだ。……それの理由はまだ、詳しくは聞けていない。
 一度は引いた手を伸ばして、頬に触れる。ん、と小さな声を漏らしたけれどもアオの目は開きそうになかった。
 その様子にホッとしてから、そっとその額に唇を寄せた。
 「……お疲れ様」
 ぼそりと小さく言葉を紡いで、身体を起こす。
 アオが目を覚ます前に、部屋に戻ろうと立ち上がりかけて、くん、と手をひかれた。
 視線を向ければアオの手が、おれの服の裾を緩く掴んでいて。無意識なんだろうつかんだそれを、そっと手を離そうとしてみて。素直に離れたそれはぱたりとソファから床へと落ちる。
 本当は、目が覚めるまで傍にいてやれる方がいいのかもしれないけれど。……運べるだけの力はおれにはない。それに、逆におれが起きているのをアオは心配するから。
 せめて、と辺りを見回し、いつもタオルや色々をしまってあるリビング傍の部屋から毛布を持ってきて、そっとかけてやる。
 「……おやすみ、アオ」
 自分の部屋に戻ろうとしながら、そっと声をかけた。
 
 
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 アオは時々、無性に怯えたような様子を見せる。
 一緒に眠っていて、目を覚ましておれをぎゅうっと抱きしめて……そしてそのまままた寝ようとする。
 おれは起きていいのかわからずにただ眠ったふりをして。眠ったままでいいのかもわからないまま、ただアオに身を任せている。
 何があったとも、どうしたとも聞けないまま。
 「……彩」
 小さく、小さく。不安そうな声でおれを呼ぶ。
 だから、寝ぼけたふりをしてそっと瞼を開いた。抱きしめるアオにそっと身体を寄せて、すり、と甘えてみる。
 驚いたような様子で一瞬息をのむ音がして、困ったように笑う声。
 「あ、お」
 だから小さく名前を呼んだ。
 大丈夫だと、言葉にしたくても寝たふりをしているのだからそれもできないままで。
 ぎゅうっと強くはならない程度におれを抱きしめたまま、アオはじっと静かに目を閉じていた。
 「……彩は、やさしい、なぁ」
 微かに、囁くような声がして。嗚咽をかみ殺すような、そんな音。
 目を閉じたおれを腕の中に抱きこんだまま、アオは静かに泣いているようだった。
 その涙の意味もわからず、寝たふりを続けるおれは腕の中におさまったまま、一度は開いた目を伏せた。
 しばらくしてアオは静かに寝息を立て始めて。代わりのように目を開いたおれは、少しだけ視線を上げる。
 涙の跡と、それに反して穏やかな寝息。
 最初に出会ったときから、アオはこんなに不安定だったんだろうか。……アオは自分のことを語らないから、おれにはわかりようもないんだが。
 「……馬鹿だな、お前は」
 ぼそりと小さく囁いて、薄く開いて静かな呼吸を繰り返す唇にそっと唇を重ねた。
 何を心配しているかがわからない。何を不安がっているのかわからない。
 おれは、お前に何をしてあげられるのかと。……そう思うのは、間違っているのだろうか。
 「アオ」
 囁くように名前を呼べば、アオの唇がほんの少し、微笑んで。
 大丈夫だから。おれはここにいるから。
 「……何も、心配ない」
 それを、アオへと届けることができるだろうか。


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 「……誕生日?」
 おれの言葉に、隣に座ったアオは朝焼け色の瞳をきょとんと瞬いただけだった。不思議そうな表情で数度目を瞬いて、緩く首を傾げる。言葉の意味は理解しているのだろうけれど、おれがそう言うのがわからない。そんな表情だった。
 「アオは、誕生日を知らないのか?」
 「意味合いとしては知ってるけど。……ぼくは人間じゃないしなぁ」
 困ったように眉尻を下げて笑って、わしわしと自分の髪を掻き回す。細められた瞳と同じ色の髪が掻き回されてさらさらと揺れた。
 「……人間じゃないから?」
 「誕生日ってものがないってこと」
 ひょいと肩を竦めてアオは笑う。多分、マスターが存在せずに長年を過ごしてきたアオと、マスターが存在したおれとの違いなんだろう。……別にセンターが悪いとかそんな理由ではなくて、ただ、それが『必要なかった』というだけで。
 『彩』
 思い出すのは、優しい声。
 『誕生日というのは、君が今日まで生きられたことを喜ぶ日だよ』
 おれの両手を包んで、優しく微笑みながらそう言っていた。誕生日は、周囲から祝福を受ける日なんだと。
 困ったような表情のまま、アオは口元だけで小さく微笑んで。ことんとおれの肩に寄りかかるように頬を寄せた。寄り添った掌の指先がそっと絡められて繋がれて。視線を落とせばアオが目を伏せているのが見えた。
 「……まぁ正直、誕生日を喜ぶ子たちを羨ましいって思ったこともあったよ」
 ぽそりと、小さな声で囁いて。
 「だけどさ、ぼくはもう長々稼働しすぎて……そういうのが全然ないや」
 なんとなく、その声が寂しげに聞こえて掌をそっと握りしめた。朝焼け色の髪に頬を寄せて、おれも目を伏せる。手をしっかりと握り合ったまま、アオはそのまま口を閉ざした。
 そのまましん、と静寂がこの場を支配して、おれもアオも口を開かないままただ時計が時を刻む音だけが耳に届く。視線を握られた手に向けて、そっとその手に力を込めた。
 「……じゃあ、おれと一緒にするか」
 「え?」
 手を握ったまま、アオが顔を上げるのがわかる。そのままおれは顔を上げずに、視線は繋がれた手に向けたままで。
 「おれと、同じ」
 視線を上げて、アオに向ける。視線があうから、ちょっとだけ笑って見せた。大きく目が瞬いて、それからおれの言葉の意味を理解したのかちょっとだけ頬が染まる。……普段はこんなに幼い表情をするんだよなぁ、なんて思ってみて。
 「いや、え、でも、彩」
 慌てたような声。聞かないふりをして、すぐ傍の額に軽く口付けた。
 『だから』
 アオが顔を真っ赤にしてから、へにゃっと気の抜けた笑みを見せる。そうして、アオからの口づけを素直に受け入れて目を伏せた。軽く、触れるだけの口づけが幾度も繰り返されて。身体を起こすアオと繋いだ手をほどいて、その首にそっと腕を絡めた。
 
 『今日が、お前の誕生日だよ、彩』
 
 ……誕生日がないなら、作ればいい。
 おれと一緒に、何年でも一緒に過ごしていこう。


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 「……彩ってさ、ぼくより身長高いよね?」
 いきなり言い出したアオの言葉におれはひとつ目を瞬いて、それからほんの少しだけ眉根を寄せながらソファの後ろからおれを覗き込むアオを見上げる。
 アオの台詞に脈絡がないのはいつものことだ。アオには思い付いた言葉を考えもなくぽんぽん口にする癖があるから。
 「……そうだな」
 問いかけらしい言葉に頷いて見せればアオは背凭れの後ろからソファの前に回ってきて、横に立ったままおれのことをまじまじと見つめてくる。
 アオとおれの身長差は正直、そんなにある、と言うほどではない。精々合って……10センチかそこらだ。
 男として些細なプライドでもあるのかと不思議に思えば、アオは納得したかのように何度か頷いて見せた。
 「アオがおれより低いのは、センターの意向だろう?」
 「うん。一応医療用……みたいな扱いだから、身長が高すぎても患者に威圧感を与えるからって」
 だけど紫苑はぼくより高いんだよなぁ、と拗ねたように唇を尖らせる様子に微笑めばつられたようにアオも笑う。
 それから、ふるっと首を振って立ち上がる。読んでいた本を閉じながら見上げたおれに、アオは唇の端を引いて笑って見せた。
 「どちらかというとぼくにとって問題なのは身長よりも、それに付随した重さの方で」
 ……重さ?
 にこにこと笑うアオに対して首を傾げ、その近付く朝焼けの色を見ていた瞬間……がくん、と身体が揺れて。
 俗に言うお姫様抱っこ、と言うものをされていると気づいた瞬間、その不安定さに思わずアオの首筋にしがみついた。
 「アオ、何してる!」
 「え、見たまま?」
 ……わかって言っているからアオは質が悪い。落ちないようにしっかりとしがみついたまま、どこか機嫌良さそうなアオの頬をつねってみる。
 いたたたた、と声は聞こえたがそんなのは知らない。
 「説明するから、暴力は反対っ」
 「説明もだけど、下ろせ」
 言われるままにアオがおれを下ろして、やっと一息吐く。……たまに、寝室に行くときにされるんだが、あれは安定性が悪くていけない。落ちたらどうする気なんだ。すぐ壊れるような柔なボディはしていないはずだが。
 ソファに下ろしたおれの横に座ったアオはしっかりおれの肩を抱いたまま、うんとひとつ頷く。
 「いや……身長に比べて彩は軽いから、運びやすいよなぁって」
 「おまえに力があるからじゃないのか?」
 アオは簡単に言うなら医療用のアンドロイドだ。……正しくはボーカロイドなのだから、アンドロイドと言うと間違いなんだろうが。
 男性型だということを差し引いても患者を抱えたり連れ歩いたり、そんな肉体労働をしなければならない存在なのだから、力が強いせいじゃないかと思ったんだが。
 「確かに他のボーカロイドよりかは力が強めには造られてるけど、それを差し引いても彩は軽いよ」
 「……どうしてこういうボディになったかまで知らないからな」
 ボディの中身はマスターの好きなようにすればできる。生体部品だらけにしてもおれのように重さを軽くできることもできなくはないらしい。
 ……まぁ、そういうのはすべて、アオの受け売りなんだが。
 「それで、結局何が言いたい?」
 「え」
 アオの言葉には、大抵何かが隠れている。守秘義務だらけの仕事場のせいだろうと言えばそれまでだが、本人がその回りくどい喋り方に気づいていないのが些か問題だ。
 えーと、と視線を巡らせたアオはおれを窺うように覗き込んでくる。怒らないでほしい、の意思表示だから、ただ頷くにとどめる。
 「つまり、ね」
 瞬間、ぐいっと力任せに引き寄せられて、ソファに座るアオの上、向かい合うように座らされる。
 「……こういうこと、楽だなって?」
 つまり、それ、は。
 擬似的な心臓がどくんと鳴った。頬を撫でるアオの手が冷たいのではなくて、自分の頬が熱くなっていることに気づくまで数秒を要して。
 頬から顎を辿り、首筋に触れる柔らかい感触で目が覚める。
 「アオ、このバカ、昼間からっ……」
 「んー……知らない」
 感じるのは吸い付かれる小さな痛み。ここで抵抗して殴るのがいいか、それとも……と考えていれば、小さく、声が聞こえて。
 「……大事な人ひとり、軽々持ち上げられないなんて、男らしくないしね」
 「……大馬鹿者」
 相変わらず、変なところばかり気にする男だ。諦めて小さく溜め息を吐いて……その頭を腕の中に抱え込んだ。


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 「……彩?」
 いつものように仕事から帰ってくれば、ぼくに背中を向けるようにして庭の片隅に座っている恋人の姿。
 小さく声をかければ、細い肩を震わせて肩越しにぼくを振り返った。
 「アオ」
 低い声がぼくを呼んで、一度強ばった表情がほっとしたように緩められる。そうして、その腕の中から現れた、もうひとつ。にゃあんという声と共に現れたのは。
 まぁるい目をした、小さな子猫。
 「……どうしたの、その子」
 「親猫とはぐれたらしい。……ミルクをやったら、」
 なつかれた。と気まずそうに言う彩に近づけば、彩に抱かれて機嫌よさげなその子猫はもう一度にゃあと鳴いてみせる。
 灰色の毛並みに綺麗なブルーアイズ。肩に乗ろうとする猫を引き戻した彩はじっと猫と見つめあう。
 「……飼ってもいいよ?」
 ぼくが仕事の間、彩はこの家にひとりぼっちだ。猫が増えることで彩の気が紛れるのならそれはぼくにとって好ましいことだし。
 そう思ったけれど、猫を指先でじゃらしながら彩は少しだけ困ったように微笑んで。それから緩く首を振った。
 「いや……いい」
 「そう?」
 「おれたちが飼うとなると、手続きとかが大変だろう。あの人たちに手間はかけさせられない」
 そこで一度言葉を切った彩は、子猫を地面に降ろして長い指先で喉を撫でる。視線を庭の外へちらりと向けた。
 それに、と言葉を紡ぐ。
 「……相手が猫であっても、置いていかれるのは、嫌だからな」
 囁くように、そう告げた。彩の腕から離れた子猫は、しばらくぼくと彩を見上げた後尻尾を揺らして踵を返した。庭の境界になっている柵をするりと抜けて、姿が消える。
 誰のことを指しているかはわかっている。誰を想って言っているかもわかってる。
 だから、無言でその肩を引き寄せた。
 先に逝かれてしまうのを恐れる君のために、ぼくがちゃんと横にいる以外にひとつ、できることを知っている。
 「……ね、彩。動物型のアンドロイドがいるの、知ってる?」
 「……動物型?」
 「一匹、飼おうか」
 ぼくを見る空色の目が大きく見開かれて。何かを言おうとした唇を軽く、一瞬だけ塞げば、かぁと頬が赤く朱に染まった。
 「アンドロイドならぼくたちと一緒だ。……寂しくないよ」
 さみしがりだけどつよがりなきみに、このぼくができること。


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 抜けるような青い空と、陰影の濃く浮き出た真白な雲。
 そうして、茹だるような暑さ。
 2人で暮らして、何度目かの夏が来た。


 「……あーつーい……」
 ぐったりとソファに寝そべってぼそりと呟く姿。長い手足をソファからはみ出させて寝そべったまま、ただ小さく言葉を紡いでぼんやりと天井を見つめる青い瞳が何かを捜すようにゆらりと揺れて視線を彷徨わせた。緩やかにひとつ瞬いて、開け放たれたリビングの窓の先、さぁさぁと響く水の音が微かに響いていて、アオのボーカロイド特有の感度の高い耳がそれをとらえた。
 「……彩ー?」
 窓の向こう、佇む背の高い後ろ姿。微かに吹いているらしい風に柔らかな深い藍色の髪を揺らしながら広い庭にさぁさぁと水を巻いていた彩は、アオの呼び声が聞こえたのか水を巻くその手をそのままに部屋を見るように振り返る。
 近づくようにソファからのそりと立ち上がったアオがリビングの全開にされた窓に掌を触れさせ、そのまま縁側に腰をかければその様子を見つめていた彩がほんのりと柔らかい笑みを見せた。アオ、と唇だけがそのまま言葉を紡ぐ。
 「彩は暑くないの?」
 「おれは、体温調整がしっかり作られているからな」
 「へぇ……」
 ボーカロイドの中にも人間に近く作られているものと、ロボットに近く作られているものがいる。アオと彩で言えば前者がアオ、後者が彩だ。彩は見た目と有機的な部品としては非常に人間に近いが、機能は実にロボットに近い。
 人と違い自動的に外気温と自らとの体温調整を行うように内部組織が動いているらしく、常に快適に過ごせるようになっているらしい。人間にほど近く作られ、汗をかくほどには人間に近いアオは羨ましげに目を細める。
 「いいなぁ……ぼくは暑くて……」
 「だから、こうして水を巻いている」
 彩の物言いにぱちりとアオは目を瞬く。空色の瞳を細めた彩はアオを見つめ、ほら、というように辺りを見回した。彩が巻いた水を浴びてきらきらと草木が夏の日差しを弾いて輝き、その眩しさにアオはそっと目を細めた。
 「水を巻いた場所を風が通れば、風が冷やされて涼しくなる。……マスターがそう言った」
 「そっか」
 夏場、彩はよく水を巻いていたなぁなんてアオは思い出して。おそらくはそうやってマスターが言った上でそれを覚え、ロボットのような体温調整ができないアオの為に庭に水を巻いていたのだろう。
 地面のくぼみが水を受けて水たまりを作り、夏の空を映して青く見える。雲がゆっくりと流れる様を見上げてアオはぼんやりと目を細めた。高く広がる夏の空。目の前でまた水を巻く作業に戻る最愛の人の瞳と同じ色だ。
 「……よし、これでいいかな」
 水を巻き終わったらしい彩はきゅ、と音を立てて蛇口を閉め、ホースを片付けてから座っているアオの横に腰掛ける。ぺたりと身体を寄せてくる彩の体温は低く、日差しに熱された肌を心地よく冷やしていくよう感覚すらする。
 「……ね、彩」
 「うん?」
 ぼんやりと、空を見上げたまま。アオは小さく彩に問いかけ、彩は風に揺れる草木を見つめたまま言葉を返す。
 「日が落ちたら、散歩行こうか。涼みに」
 「……あぁ、そうだな」


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