彩が扉を開けば女性の楽しげな複数な声が聞こえて、水色の瞳を軽く瞬いてから意を決したように足を踏み出す。扉が開いた音がしたことに気づいたらしい部屋の中にいた女性たちは彩の姿を見やってひらりと手を振った。
茶色の髪をショートにした女性と、薄桃色の長い髪を背中に流した女性。二人ともボーカロイドであることはその腕にはめた腕章ですぐに理解できる。『メイコ』と『ルカ』という機種の二人の女性は頭を下げる彩に呼びかける。
「お疲れ様ー」
「お疲れ様です、彩」
気さくに話しかける『メイコ』――コウと、『ルカ』――コーラルに対して彩はゆっくりとした足取りで近づいていき、会話の輪に加われるぐらいまで距離を詰めれば二人を見比べるように交互に視線をやればほんの少しだけ口元に笑みを見せる。
「お二人もお疲れ様です」
「相変わらずお堅いわねぇ。アオたちにするみたいにタメでいいのよ?」
呆れたような口調のコウに彩はほんの少しだけ困ったような、申し訳ないような表情で笑う。くす、と小さくコーラルが笑みをこぼし、ねぇとそれに続くようにしてコウが言葉を続けた。このメンテナンスセンターで働くようになってからというもの、女性陣には敵わないと幾度も思い知らされてしまっている。
「……あの、ところで」
話題を変えるようにコーラルとコウを二人とも交互に見比べ、彩は小さく口を開く。不思議そうにする二人をじっと見つめて、彩は一度視線を逸らしてからもう一度視線を向ける。コーラルとコウは顔を見合わせ、ただ言葉を待った。
「ちょっと、お二人にご相談が」
何と首を傾げる二人に、彩は少し視線を下げる。それから言葉の先を促すように視線を向ける。
「……あまり聞かれたくないので、耳を」
囁くようにすればコウとコーラルは顔を見合わせる。それから背の高い彩と距離を縮め、僅かにかがんだ口元にそっと耳を寄せた。
「……なるほど」
「あら、いい考えですね」
簡単に説明をした彩に二人はどこか悪戯を考え付いた子供のような表情で笑い、二人で視線を合わせて笑い合う。その姿にほっとした表情を見せた彩は二人が笑い合いながら案を出してくれるのを聞く。それはまるでどう悪戯をしようか企むような、そんな姿でもあった。
がちゃりと扉を開く音がして、ただいまぁと大きく幼い声がかかる。彩が振り返ればそこにいたのは『リン』と『レン』、それと『ミク』――カナリアとセリンという双子と、スイという少女のボーカロイドたちで。コウが手招けばぱたぱたと三人とも駆け寄ってきて、先刻彩から聞いた説明を伝えるべくとするコウの言葉を素直に聞いていた。
「手伝う!」
「オレも」
「私も手伝わせてもらって、いいですか?」
「……みんな、いいのか?」
コウの説明を受けていともあっさりと協力すると述べた三人に対して彩は不思議そうに眼を瞬き、その反応に対して一人は楽しげに、一人は悪戯っぽく、一人は普段と変わらない真面目な表情で三者三様に頷いて見せた。
あまりにも話がうまく進み過ぎているのが気になるのか、戸惑ったような表情を浮かべた彩はそれでもほんの少しだけ口を開き、囁くような声でありがとうと呟いて僅かに口元を緩めて緩く頭を下げた。
「彩、まだお礼は早いわよ?」
「えぇ。紫苑と萌、あとは主任たちにも手伝っていただきましょう」
コウが悪戯っぽく片目を瞑り、楽しげに口元を緩めるコーラルとの言葉にえ、と彩は小さく言葉を漏らす。周囲を囲まれたような状況で、くるりと彩が視線をめぐらせればそれぞれ楽しそうな様子で笑みを見せた。
「……あれ」
アオが普段通り彩と暮らす家に着いた時、普段は点いている家の明かりが点いていないことにまず驚いて目を瞬いた。アオと彩が暮らしてから暫くが経って、さらに彩が色々とした事情でセンターで働くようになって。
基本的にはアオよりも彩の方が出る時間が遅く、帰ってくる時間が早いのだから、つまりは彩が先に帰っていないということは非常に珍しい。普段であれば煌々と明かりがつき、彩が晩御飯の用意でもしている時間であるはずなのだが。
「彩ー?」
鍵がかかっている扉を開き、廊下の奥へと声をかける。真っ暗な闇で満たされた部屋の中、返ってきたのはもちろん声ではなく耳に痛いほどの静寂で、アオは目を瞬いてから首を傾げる。もしかしたら同僚であるコウやスイ辺りにつかまって、お茶の相手でもしているのだろうか。
靴を脱いで廊下に上がり、靴箱に手をかけたところで指先が何かに触れた。かさりと音を立てたそれは何か、紙のような何かで。手にとって眺めれば、そこに書いてあったのは丸い文字でひとつの文章。
『20:00、屋上へ』
ただその言葉を見て、暫く悩んだアオはおそらくは悪戯か何かだろうと思いながら握りつぶそうとしてふと手を止める。彩がいないこととこのメモ。まったく関係がないとは思えそうになかった。
不安でないと言えば嘘になる。ただ、この紙が置かれていた場所がアオと彩、そしてセンターにマスターキーがある以外に触れることができない靴箱の上にあった、というただそれだけのことがアオの不安を和らげてくれる。
ここに触れることができるのは、知り合いしかいない。そして彩がいないのは、その何かが関係しているのだと。アオの勘はそれだけを告げていた。
「……やれやれ」
小さく呟き、アオはおそらく示されているのだろうセンターの屋上へと向かおうと荷物を玄関に置き去りにしたまま靴を穿きなおし、誰もいない家を出て行こうと真っ暗な廊下に背を向けた。
+++
誰もいない廊下をかつんかつんと音を立てて歩く。珍しくセンター内で誰にもすれ違わず、しんと静まりかえり、うっすらと光る廊下の電灯とその光を照らし返すリノリウムの床と相まってまるで誰もいないような錯覚さえ起こさせる。
『入院』しているボーカロイド及びアンドロイドたちは19時半にはスリープ、もしくは自主的に『眠る』ように指示している。夜中に何かがあっても対処できる人間が少ないという点からの安全策だ。つまり、今の時間では念のために勤務しているセンターの技師たちと、夜勤予定のボーカロイドしかいないはずだ。
「……なのに、会わないなぁ」
ぼそりとアオは疑問を口にする。誰か彼か、すれ違ったり声が聞こえてもいいはずなのに。声は窓の外の闇へと飲み込まれ、誰にも聞かれることなくアオの聴覚だけを揺らして消えていった。
とりあえずは、と言われるままに屋上へと足を向ける。相変わらずしんと静まりかえったセンター内はアオの足音だけが聞こえていて、逆に怖ささえ感じるほどだった。あいにく、ボーカロイドであるアオは『恐怖』という感情を覚えることはほぼないのだけれど。
屋上への階段をかんかんと音を立てて上がる。かちゃりと音を立てて扉を開いた瞬間――。
ぱぁん!
高く鳴り響いたのは破裂音。そして自分に降りかかる紙吹雪でそれがクラッカーだと認識するまで数秒がかかった。そして静寂からの激しい音にきーんと鳴る耳鳴りと、あまりにいきなりのことで何も言えずにただ驚いて動くこともできずにその青い目を瞬くだけだった。
クラッカーを鳴らしたのは自分よりも小さな影。緑色の髪と、金色の髪。クラッカーを構えたまま嬉しそうにするカナリアとスイ、可愛い妹たち。何が起こったかわからずに呆然とするアオの手を軽く引いたのはもう一人の金色と、緑色。普段よりもわずかに楽しそうな様子が窺えるセリンと柔らかい笑みを浮かべて幸せそうにする萌の姿。
二人に手を軽く引かれ、引っ張られるかのようにアオが足を進めた視線の先。光に照らされていたのは数々の料理が置かれたテーブル。その横に立つコーラル、コウ、紫苑、よく見知った数人の技師たち。
吸い寄せられるように視線が向いた、その奥、アオから見て真正面。
「……彩」
いまだに事態が飲み込めないまま呆然とするアオに名前を呼ばれた彩は微笑み、テーブルを回ってアオの前に立つ。片手を持っていたセリンが手を離し、アオたちの後ろをついてきていたカナリアの横へと並び、逆の手を取っていた萌はそっと手を離して兄である紫苑の横に並んだ。
手に伝わるのは彩のほんの少しだけ低い体温。自分より背の高い彩と視線を合わせれば、どこか嬉しそうな表情で微笑みながら彩はゆっくりと口を開く。
「今日が何の日か、覚えているか?」
囁くようにアオに問いかけたのはアオがよく聞きなれた穏やかな低い声。今日、とアオは唇だけで言葉にするも、メモリの中には何も該当するような場所がないと困ったように正面に立つ彩から視線を逸らす。
そんなアオを見ていた彩は仕方ないなぁとでも言うようにほんの少しだけ微笑んで、それから一度深呼吸するように息を吸えば、微笑みとともに言葉を紡いだ。
「……誕生日、おめでとう」
きょとんと青い瞳を丸くして、アオは数秒動きを止める。そうして思い出すのはひとつの言葉。この、目の前に立つ自分の恋人から言われた、それを思い出す。それは、いつだったか。ずっと前だったような、すぐだったような。
『……じゃあ、おれと一緒にするか』
『おれと、同じ』
微笑んだ表情は今と同じ、穏やかで優しい微笑み。
誕生日などなくて。必要なくて覚えてもいなかった。そもそもあるかどうかも知らなかったし聞かなかったし。いつかそれをこの優しい恋人に言ったときに彼は言ったんだった。『自分と同じにすればいい』と。
「彩……!」
周囲も顧みずに腕を伸ばし、彩の細い身体を抱きしめる。きゃあと声を上げる妹たちの声も聞こえているのかいないのか。ぎゅうっときつく彩を抱きしめたアオの耳が腕の中に収めた彩がくすくすと珍しくも小さく声を立てて笑う音を拾う。
少しだけ戸惑ったような仕草で彩の腕が背中に回る。ぎゅっと一度抱き締め返してからまるで子供を宥めるかのようにぽふぽふと背中が叩かれて、それから耳元にそっと感じた柔らかい温もりと、微かに届いた声。
「――」
「え、彩、今なんて」
聞き間違えかと思ったアオが聞きなおそうと問いかけた瞬間、アオを抱き締め返してくれていた彩の腕が緩んでほどける。それと同時にするりと彩はアオの腕を抜けて、すでにアオに背を向けていた。テーブルを囲むようにした面々が二人を見守るように立ち、そうして彩がアオを振り返って小さく呼ぶ。
ケーキの前に並んで立った二人の『KAITO』を、きょうだいや技師たちが見つめる。ある人は優しく、ある人は楽しそうに。
そうして、揃って同じ言葉を口にした。
「誕生日おめでとう!」
おまけ。
アオ「皆して隠しておくとか酷いなぁ」
コウ「ばらしたらつまらないでしょ?」
アオ「ところであのメモ、誰?」
スイ「わたしとカナリアが持って行ったの。彩が鍵貸してくれたよ」
アオ「彩も人が悪いよなぁ」
紫苑「アオのことだから絶対忘れていると言っていた」
アオ「……否定はしないよ」
コウ「ほら、食べないと冷めるわよ。お手製なんだから、残しちゃいやよ」
アオ「あとさ。誰こんなどっきり仕掛けたの」
コーラル「サプライズにしたいといったのは彩です。あとは私たちが」
カナリア「屋上にしよ、って言ったのはアタシだよ! 見晴らしいいし、綺麗だし!」
萌 「寒いから悩んだんですけど、あったかいものも作れば大丈夫かなって」
セリン「星を見ながらって言うのもありかなって」
アオ「……なるほど」
おまけのおまけ。
「彩、さっきの言葉。……聞き間違いと思わなくていいんだよね?」
「……好きなようにすればいい。お前にそう聞こえたならな」
2011/02/14 Ren Katase
タイトルはligament様からお借りしました。